白夜沙珱が鬼になった夜-3

 そうと決まってからは、隠れて能力の訓練を始めた。


 放課後に裏山の奥深くまで登って、《白鬼》を発動する。この力は内蔵に負荷をかけ、発動中は地獄の激痛が絶えず体を駆けずり回るが、そんなものは沙珱にとって些細な罰にもなり得なかった。


 《白鬼》の効果は大きく二つ。一つは身体能力の飛躍的向上。向上というレベルを超えて、肉体そのものの進化に近く――比喩でもなんでもなく、鬼の膂力りょりょくを得るのである。


 二つ目は、【鬼ノ鎌】――万物を両断する鎌の召喚。試した限りで、【鬼ノ鎌】に斬れないモノはなかった。


 訓練を始めてから今日まで、あの時のように自我を失って暴走することは、ついに二度となかった。あれは発現直後の暴発だったのか。憎しみに我を忘れた故だったのか。今となっては分からない。


 ――沙珱が初めて"異常"に気づいたのは、塔伐科高校入学試験、当日だった。


 パンチングマシーンによる攻撃力の測定。一巡目、異能バベルなしの打撃審査では平均的な数値を出して、いざ本命の二巡目。


 《白鬼》を発動し、超強化された肉体でパンチングマシーンをぶっ壊してやるつもりだった沙珱は――その場から、一歩も動けなくなってしまった。


 試験官と受験生たちの視線が針のように刺さった。異能バベルの発動は能力者にとってあまりに容易すぎるため、かえって『どのように発動するのか』という説明の方が難しい。そう、たとえば――頭に浮かべた単語をそのとおり口にするのと同じくらい、気安いものである。


 それが、できなくなった。何をどう頑張っても異能バベルが発動できず、冷や汗だけが湧き出て下着をびっしょり濡らした。


 結局、沙珱の二巡目は記録『ゼロ』となった。異能バベルなしでマシーンを殴ることすらできず、試験官が痺れを切らすまで震えて立ち尽くすだけだった。


 異能バベルの発動を、発声にたとえるならば――能力が喉の先まで出かかった瞬間に、視界が暗転して、月光が照らす血まみれの部屋、そこに転がる姉の半身、彼女を手にかけた感触、全てが鮮烈にフラッシュバックして、それらが見えない手となって、喉を締める感覚。


 過去に受けた深い心の傷が、特定の場面で行動に強い制限をかける――PTSD《心的外傷後ストレス障害》を患っていた。


 途方に暮れた。こんな障害を抱えて塔伐者になれるものか。当然落選したと思いきや、結果は合格。蓋を開けてみたら落ちこぼれの寄せ集めという桜クラスだったが、当日試験の出来がアレでは納得するほかない。


 沙珱は、この障害と向き合いながら夢への道を模索するしかなくなった。まずすべきは、【塔】にすら行かせる気がないという担任の佐倉を打ち負かして松クラスへ転入すること。同時に校内大会で優秀な成績を残して、一年目のキャリアに弾みをつける。



 ――そう、思っていたのに。


 校内大会二日目。開幕早々から竜秋とともに竹クラスの拠点に飛ばされ、今、沙珱は土の味を噛み締めている。


 動けないのは、いばらの攻撃によって駆け巡る、全身の骨をいっぺんに砕かれたような激痛のせいではない。


 すぐそこに、仲間の竜秋がいるからだ。


 甘えたことを言っている場合ではない。ここで能力を発動しなければ、竜秋も自分も無為に殺される。そうなれば、桜クラスの優位は一気に地の底へ落ちる――あらゆる言葉で、熱意で、覚悟で己を奮い立たせてみても、全身震えて蚊ほどの力も出やしない。


 《白鬼》という刀に、手をかけるところまでは来ている。しかしどう力を込めても、接着剤で貼り付けてしまったみたいに、鞘から引き抜くことができない。


 血まみれの姉の泣き顔が、何度でも、沙珱を石化させてしまう。


「……一人目」


 棘が右手を振り下ろす。深緑のつるぎが、獲物を認めた鷹のようにぐっと一度中空で剣先を下方に据えて、一息に沙珱の背中目がけて急降下した。


 あぁ、いざ自分が死ぬとなってすら、この体は石像のように固まったままなのか。なんと弱く、脆い心――


 来たるべき激痛を天罰のように受け入れ、目を閉じた沙珱だったが、いつまで経っても痛みは訪れなかった。


 嵐のように飛び込んできて、沙珱に覆いかぶさった少年が、その背で沙珱を庇ったから。


「〜〜ッ……!!!」


 頭上から迸る苦悶の絶叫。沙珱は目を剥いて、どうにか視線だけ天へ向けた。たつみ竜秋――彼が上にかぶさって、沙珱の頭を片腕で包み込み、沙珱の小さな体をまるごと抱きしめるみたいにして、庇ってくれている。


 頭上の竜秋は、二本目――耐えきれず半数がショック死するとまで言われた灼熱を浴びて、むせび泣くようにもだえる。


 ――それでも、倒れない。


 竜秋の体重が、沙珱の背中にのしかかることはなかった。呼吸さえままならないのか、酸素を求めて喘ぎながらも、四つ脚で踏ん張って、ついに耐えきった。


「ぁ……ぁぁあ、効かねえなァ……!」


 憔悴しょうすいしきったその両目に、未だ危ういばかりに輝く眼光を爛々らんらんと灯して、竜秋は笑う。それでも、彼が地面に突っ張った両手両足は、つつけば今にも簡単に折れてしまいそうなくらい、ブルブル震えている。


「すごい、やっぱり君は、二本じゃ倒れないんだね」


 素直な感心を口にしながら、既に棘は三本目の剣を生み出した右手を掲げていた。


 三本目が無防備な竜秋の背に刺さる。瞬間、眼球を飛び出させんばかりに目を剥いた彼の喉から、耳を覆いたくなるような絶叫が轟く。血を吐く勢いで叫び、苦しみ、あまりの痛みからか、沙珱の体を強く抱きしめ、ついに沙珱の上からずり落ちて転がり回る。



「…………き、き、キキキキ……キかねぇ……ッ!!!」



 血痰が絡んだような声を振り絞って、もう一度沙珱の上に覆い被さる、白目を剥いた銀髪の獣。

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