白夜沙珱が鬼になった夜-2

 途端に、筋肉を、細胞を無限に引き千切られるような激痛が、全身に駆け巡った。それさえ沙珱には、ひどく遠い世界の出来事のように感じた。湯水のように湧いて沙珱の脳味噌をタプタプに浸す事象は、たった一つ。


 大好きな姉を守る――ではなく。



 ……コロス、コロス、コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス――ブッコロス!!!!



 大好きな家族を傷つけた男たちに対する、無尽蔵の暴力衝動。


「な……なんだ、このガキ」


 姉にトドメを刺しかけていた男の豹のような目が、わずかに狼狽して、姉に振り下ろすはずだった右手を沙珱めがけて振り抜いた。


 異能バベル解体屋レッカー》によって、男の手から放たれる不可視の斬撃を――一振りした鎌が、空中で両断する。


「なぁっ……!?」


 ギャリィィィンッ!!と金属質の高音を上げて、沙珱の背後の障子が裂ける。沙珱の意識は、既に粗方ぶっ飛んでいた。獣のように上体を折り曲げ、一息に畳を蹴ると、彼女の痩躯はバネ仕掛けのごとく閃いて、刹那の間に目標の懐へ。


「ひぃ……お、鬼――」


 一振りで男の腕が飛んだ。なおも部屋の中を逃げ回る二人の男たちを、沙珱は蝶のように跳ね回りながら執拗しつように追いかけ、細切れにした。身の丈を越える鎌は、一度振るうごとに床を抉り、壁を割り、天井の電灯を粉々に砕いた。この夜、家族団らんの食卓を、誰よりも破壊したのは沙珱だった。


 吐き気を催すような濃い血の臭気の中で、沙珱はハッと我に返った。手の鎌が消え、髪と瞳の色も元に戻ったが、記憶だけが戻らない。バケツいっぱいの血をかぶったような自分の姿に、呆然と立ち尽くす。


 間もなく記憶の一片が戻るや、沙珱は恐慌して姉を探した。侵入者の記憶とともに両親の死も思い出したが、姉が死んだ記憶だけはなかったからだ。


「………………………沙珱」


 電灯が壊れ、淡い月光だけが照らす暗闇の中で、自分を呼ぶ姉の穏やかな声が聞こえた。――生きてる!! 心臓がばくんと高鳴って、一気に生きた心地を取り戻した沙珱は、あまりの安堵に笑みさえこぼれかけながら、背後を振り返った。


「…………ごめ……………………んね…………」


 姉は、沙珱の背後、一メートルほど離れた畳に寝転んで、微笑んでいた。――憧れのセーラー服を赤一色に染めた、胴体から上だけの姿で。


「……………………………………へ……?」


 すとん、と視界が一段落ちて、変わり果てた姉の目線に近くなる。腰が抜けたのだった。どうして姉がこんな姿になっているのか、意味が分からなかった。


「お……お姉ちゃ……」


「黙って……こっち……来て……」


 姉の愛しい声が、口から出た途端にほどけて空気に混ざって消えてしまう。普段の凛とした強い声は影もなく、絞りカスのような今の声さえ、もう間もなく喪われてしまうと悟ると、姉にかけたい無限の言葉が、全部喉の中腹で引っかかった。


 這うようにどうにか近づくと、姉は手を伸ばしてきた。無我夢中でその手をつかみ取ると、あまりに辛抱ならなくなって、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で姉に抱きつく。


「ごめ、んね…………せっかく守って、くれたのにね……」


「守っ、た……私が……?」


「そう、あんたが。この傷はね、アイツらに、やられたの。ごめんね……ごめんね……」


 姉が何度も謝る意味も。傷を受けた相手なんて、あまりに自明なことを、わざわざ残された僅かな時間で沙珱に伝えようとする姉も、沙珱には分からなかった。あぁ、喋らないで、死なないで、どこにもいかないで。


「沙珱……だ――」


 最後は唇だけ辛うじて動くのみで、声にすらならなかった。そこで姉の目の焦点がズレた。光を失った黒い目は、もう沙珱を見ていなかった。姉は沙珱の腕の中で、ゆっくり冷たくなった。



 それからしばらく、また記憶がない。気づけば沙珱は警察病院のベッドにいた。


 その瞬間、沙珱は、このどうしようもない粗大ゴミは、なぜまだ息をしているのかと思った。


 全部、思い出した。


 姉が反逆者レネゲイドに斬られたのは両脚の膝から下までだったことも。沙珱が男たちを熱心に斬り刻んでいる間に、動けない姉の体にも鎌が通過していたことも。


 早く死ね、ゴミ。すぐ死ね、今死ね、ここで死ね!!! 鏡を見るたび猛烈に胃の底が粟立って、吐き気と共に己への殺意がこみ上げる。


 いざ死のうかと思えば、今度は「死んで楽になろうなんて、お前に許されるはずがないだろう」と、また虫ケラに吐き捨てるような自分の声が内耳に響いた。


 病院の検査で、内臓に軽い損傷が見つかった。異能バベルの副作用と断定され、「今後一切使用しないように」と釘を刺された。頼まれたって二度と使うものかと思った。


 沙珱は伯父の家に引き取られた。良い人たちだったから、沙珱は彼らと距離をとった。食事も自室で一人でとる。家の手伝いを引き受けられるだけ引き受けて黙々とこなし、心配をかけぬように学校にも毎日行った。


 沙珱が異能バベルを使ったのは、それから一度きりだ。義務付けられているランク査定のために測定機関を訪れた際のこと。


 名称、《白鬼シロオニ》――職業ではなく幻獣や怪物の名からとったような異能名は、文字通り、人の枠を超えた凶悪な力にのみ与えられる。


 沙珱の異能バベルは、『C:人災級』と査定された。能力者全体のおよそ一%となるこのCランクから上は、日常的な使用を厳しく制限される場合が多い。その上沙珱の《白鬼》は、命を削るという大きすぎる欠点によって査定を下げられただけで、能力の強力さだけならBランクに相当するということだった。当然、医者に続いて二重の発動禁止令を受けた。


 守らなければ能力者用の牢獄に即投獄もあり得る。この異能社会、高ランクの能力者が実際に能力を自由に行使できるのは、実は塔伐者や警察などの、ごく一部の職種に限る。



 一年ほど経ったある日、あらゆる奇跡を叶える【塔】の恵みの中には、死人を蘇らせる神器すら存在する、という都市伝説を耳にした。


 その瞬間に、沙珱は一年ぶりに呼吸した。


 色の蘇った世界で、沙珱は動き始めた。


 塔伐者になるという目標のために。


 家族を蘇らせるという奇跡のために。


 そして、生き返った大好きな姉に――自分を殺して、もらうために。

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