#2 ブラボー! キャプテン

 話を戻そう。


 加速を続ける機体がクイと上を向いた瞬間、一瞬の浮遊感とともに地上の景色がみるみる眼下に遠ざかっていく。


 ついに離陸してしまった。

 もう私は捕らわれた鳥だ。

 生殺与奪の権限は全て機体と機長に委ねられてしまった。

 せめて何か異常がないかこの目で確認しておこうともう一度窓に顔を近づけた時だった。

 不意に機体が大きく右に傾く。

 思わず「ひっ!」と声が出そうになり、アレがキュッとなった。

 こっそりと周りを見るが、誰もうろたえている様子はない。


 落ちるわけじゃないのか……。


 その後も機体は何度か左右に傾きながら、上昇を続けていく。

 そのたびに内心私は叫びだしたい衝動にかられた。


 クソ、わざと飛行機初心者を怖がらせようとしているんじゃないのか?


 なぜ機体がこのような挙動をとったのかは後に知ることになるのだが、この時はただただ次にいったい何が起こるのかとじっとりとした汗をかいていた。


 しばらくすると機体は徐々に水平に戻っていき、シートベルト着用のサインも消えた。機内ではキャビンアテンダントが飲み物の用意を始め、くつろいだ空気が流れる。


 しかし、その中にあって私は決して気を緩めてはいなかった。

 騙されてはいけない。

 飛行機は時にエアポケットというものに巻き込まれることがある。

 エアポケットとは乱気流の一種であり、そこに入ってしまった航空機は、稀に数十メートルも一瞬で高度を上下させてしまうことがあるのだ。

 その時の機内は一瞬の自由落下のような状態になり、過去にはキャビンアテンダントが天井に打ちつけられるなどの死傷事故も起きている。

 だからシートベルト着用サインが消えたからといって安易に外してはならないのだ。

 私は、聞きかじった情報を信じて決してシートベルトを外すことはなかった。


 ちなみに、この日は日本列島ほぼ全域を高気圧が覆い、空路上で気流の乱れが生じる可能性はほぼなかったことを聞いたのは後のことである。

 しかし、それでも機体は時折小石でも踏んだような振動が発生することもある。

 そのたびに私は隣の席の上司(46歳男性、既婚者)の手を握りたい衝動にかられたのだが、強靭な自制心を以てなんとかそれだけは回避した。


 そんな約一時間半の地獄の行程を終え、機体はようやく目的地の米子空港へと降下を始めた。

 雲間を抜け、地図を眺めるようだった眼下の景色は、徐々に現実味を帯びたサイズの風景に変わってくる。

 やがて眩い誘導灯に彩られた滑走路が視界に入った。


 だが、ここで気を抜いてはいけない。

 航空機事故は「魔の11分」といわれる離着陸の時間帯に集中している。

 1994年、名古屋空港で起きた中華航空140便の墜落事故は、着陸進入中に墜落し、乗員乗客271人中264人が死亡するという悲惨な結果を招いている。

 この事故はゴーアラウンドに関わる自動操縦と手動操作の切替が円滑に行われなかったことが要因となっているが、少なくとも乗客は墜落の数秒前までそんなことは思いもよらなかったろう。

 140便は着陸を目の前にしながら、突如機体が急角度で上昇し、失速して墜落している。


 私は窓から食い入るように迫り来る地面を見つめていた。

 そして、機体が滑走路にタッチダウンする衝撃と同時に逆噴射による強力な制動力が働き、機体は徐々に速度を落としていく。

 そのまま誘導路へと進路を変えたところで、私はようやく生還を確信した。

 本当にやったら怒られるから自重したが、シートから立ち上がって「ブラボーッ、機長キャプテン」と叫びたかったくらいだ。


 なんとか生きて目的地にはたどり着いた。

 しかし、精神的な消耗は計り知れない。

「よし、夜はカニだな」と上司は浮かれていたが、そんな気力も食欲もねぇわと私は心の中で毒づいていた(それでも結局カニは食べたのだが)。


 当然、往きがあれば帰りがある。

 翌日、羽田行きの機上の人となった私は再び過酷な消耗戦を強いられることになったのだった。


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