紫陽花の彷徨(ほうこう)

北鎌倉の祓屋家業シリーズ単行本第一巻『花影はなかげつづり』に収録されている「紫陽花の彷徨」を、第二巻発売記念としてWeb再録します。

北鎌倉の祓屋家業シリーズのなかでも、特に人気の高い作品です。



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 雨のにおいがする。

 ぽっと、その羅列だけが出てきた。鼻腔に入った空気のにおいを、明確にそれだと認識したのは、頭にその言葉がにじんだあとだった。

 しめった土のにおいに、刈られて折り重なった青臭い草のにおい、そして雨独特の水のにおい。

 嫌いではないけれど、爽快とはほど遠い。

 次に感覚を取り戻したのは、耳だった。さあさあと、ほんのわずかにしずくが葉を叩いているのが聞こえる。まだ雨は降っていた。

 暗いと思っていた瞼の向こうから、薄暗い光が漏れてきて、やがて見慣れない板張りに焦点があった。真新しくはない、天井だ。

 そこまで身体からだが戻ってくると、今自分の身体がひどくだるいことを思い出す。身体が動かないのではない。身体がだるいから動きたくないのだと、ここまできてやっと頭は理解した。

 鼻、耳、瞼。自分には血の通う手足が、頭があるのだと理解してから、ふぅぅと深く息を吐きだす。呼吸を思い出した。

 一通り、自分の身体を認識し終えると、風夜かざよはこわばった手足に力を入れて、緩慢な動きで上半身を起こした。

 右手をとじて、ひらいて。何度かそれを繰り返して、ほっと安堵あんどの息をつく。

 ここまで身体を取り戻すのに時間がかかったのは、随分久しぶりだ。


 ここは、夢である。それも、風夜自身の意思が干渉できる夢。

 夕飯が飛龍ひりゅう特製、梅しそミルフィーユカツで、しかも味噌汁は、なめこ。いつもおいしいご飯をありがとうと感謝しつつ、好物にカテゴリーされるそれらを平らげ、ニキビ撲滅と念を込めてスキンケアをし、就寝した。そこまではしっかりおぼえている。

 そのあと。

「あー…。そういやあそこに行ったなぁ」

 鼓膜に届いた声は、若干かすれていた。

 ぼんやりと思い出すのは、水の中にいたこと。

術師である風夜は、普通の夢を見ることができない。奇想天外で、設定も世界観も都合もへったくれもない夢は見ない。代わりに見るのは、俗にいう「お告げ」や「予知夢」といった意味のあるものに限られる。

 それらに誘われると、必ず身体が水底に沈んでいくところから、夢は始まる。そこで肉体はあぶくに変わり、ごぼりごぼりと形が消えていく。気がつけば、辿りついた先にこうして形があって、それが自分の「身体」だと認識するところまでがワンセットだ。大概はひとつ感覚を戻せば、すぐに起き上がることもできるのだが、今回はだいぶ時間がかかった。

 まだ違和感とこわばりの残る首や腕をぐるぐると回してから、さてと、と立ち上がる。地を踏みしめている感触がまだ遠い。いつぞや体験した、三十分正座をしたあとの足の麻痺に似ている。形の認識がしっかりしてくれば、これも解消されるだろう。


 どうやら、板張りの部屋のようである。物らしい物が一切なく、生活感どころか、引っ越し前の物件よろしく何もない。やけに広い部屋で、二十畳ほどはあるだろうか。出入りは目の前の障子戸のみ。瞼の向こうで感じた光は、障子から透けている。そこ以外に光源がないせいで、部屋全体は薄暗い。

 近づいてみると、障子には竹の柄が入っていた。骨組みの部分は糊の劣化でやや茶色に変色しているが、破れなどはない。空間の雰囲気と相まって、偽りの竹がやけに美しく見える。

 戸の向こう側は、左右に長く伸びる廊下であった。敷居をまたぐと一段下が板張りになっており、そこから先に続くガラス戸が外との境界線だ。

 さきほどから、やけに鮮明に聞こえる雨音に疑問を持っていた風夜は、廊下に出て納得した。本来、外と内を隔てているガラス戸が、人ひとり分くらい開いている。しかし、廊下が濡れている様子はない。こんなにも、さあさあと鳴いている雨は音とは裏腹に霧雨きりさめだったからだ。

 霧雨というよりは、霧に近いほど、外は白くけぶっている。音と情景の差異が、妙に薄気味悪く、風夜の背中が粟立った。


「……さて、どうしますかね」

 彼女は呼ばれてここにいる。この夢の主がいるはずだ。大概は向こうからやってくるのだが、感じ取れる限りでは気配らしいものがない。普段なら家の中から見て回るが、ご丁寧にガラス戸は開いている。

「なら、外からか」

 左手を軽く振って、身に着けている紫水晶のブレスレットを鳴らす。

 履物はなく、裸足だった風夜はそのまま地面に足を下ろした。冷たく、しっとりと濡れた土の感触が、足の裏に伝わる。降りかかってくる雨滴うてきは、やはり霧のように小さい。

 左のほうへゆっくりと足を進めると、白がかった視界に、鮮やかな色が加わった。

 青、青紫、紫、赤紫、薄紅、紅。紫陽花であった。

 気づけば、背後にあったはずの家屋はその色を薄め、代わりに艶やかな彩色がぽつぽつと、雨粒のように増えていく。

 雨音はまだ鳴っている。

 紫陽花に沿うように歩いていくと、やがてそこを占める色は紅から青に変わっていく。色づいているのは花ではなくうてなであることは知っているが、綺麗な花だ、と思ってしまう。

 萼の色彩に白が混じり始めたころ、ふと足を止めた。


 風が変わった。

 正しくは、風が運ぶ雨のにおいが変わったのだ。そよ風にもならない、ほんのわずかな空気の流れ。

 足は再び前に進んだ。紫陽花の青が消え、白が増えていくごとに、そのにおいは強くなった。ツンと鼻をつく、不快でいて、どこか甘い。

 あわせて、さあさあと鳴っていた雨音が小さくなり、代わりにずる、ずる、と不規則に何かを引きずる音がし始めた。

 それは、白い紫陽花がつくる境界線の向こう側からだった。

「っ」

 漂ってくるにおいに、くっと眉間にしわが寄る。しかし、その原因はまだ確認できない。まだ、霧雨の中なのか。


 ずり。


 それはやけに鮮明に聞こえた。はじかれるように、風夜はうしろを振り返る。しかし、そこには目を覚ましたときにいた平屋が建っているだけであった。

 ずり。ざり。ざり。ずる。

 聞こえてくる音のリズムが一定になり始めた。左手首の数珠に触れながら、あちらこちらから響くそれを追って、首が回転する。

 ざ。

 最後に音がしたのは、風夜の右斜めうしろのほうだった。白が色づく、紫陽花の向こう側。


「っあ、くっ…」

 振り返って息を詰めたのは、もはや脊髄反射に近かった。

 赤黒く、しかしところどころに残る薄桃色。ぐちゅりと潰れた苺のような、甘く、だが芳香とは程遠いそれと、鼻腔を刺す刺激臭に混じる、鉄さびのにおい。

 身体のいたるところから生えた無数の、口。ぬたり、と糸を引く唾液は、腐りきった果実の汁のように、赤茶色をしている。


 それは、女だった。

 唾液まみれの長い黒髪からのぞく乳房にも、いくつも口がついている。なにかを求めている様子もなく、ほう、ほうと空気を吐いていた。

 まずいな。

 女を睨みつけながら、風夜は内心焦りを感じていた。

 これは夢だ。風夜自身が干渉できる夢。しかし、誘われた側である以上、主導権は夢の主側にある。化け物に呼ばれる夢は、もう随分と見ていなかった。ここで対峙たいじするとなると、風夜が圧倒的に不利になる。

 女は、ひどく膿んでいる腕を伸ばしてくる。腕にも唾液を垂らす口はいくつもあった。赤茶の唾液が紫陽花に落ちると、そこから茶色に変色し、あっという間に枯れてしまった。

 ゆっくり、ゆっくりと、境界線がなくなっていく。

 ただよう腐臭で、呼吸困難になりかけている風夜は、ぐっと数珠を握りしめた。

 あと一つ。

境界が消える間際、ぶちりと数珠を引きちぎって珠を散在させると、すばやく刀印を結んだ。


にしてげんげんに通ず、げんにしてとなりげんに通ず。我現げんに通ずるもの、げんとなり、うつつに転じよ!」


 刹那、さあさあと鳴っていた雨音が掻き消えた。そうしてすぐ、視界は上のほうから真っ黒に染まっていく。二、三歩先で風夜に手を伸ばす女の姿も、間もなく黒に塗りつぶされた。

 漆黒の世界で揺蕩たゆたう心地に、一瞬安堵を覚えた。

 が、その暗闇に鳴り響く鈍い金属音が、風夜を一気に夢の淵から現実へと呼び戻した。




 居候の身である飛龍は、自分がやりたいから、という理由で毎日料理番を請け負っている。基本的に平日の朝は和食で、休日の朝は洋食という彼のルールに則り、朝食は作られる。

 土曜日の本日のメニューは、半熟のオムレツにカリカリに焼いた厚切りベーコン、角切りにしたじゃがいも、にんじん、玉ねぎが入ったトマトスープ、最後にトーストだ。トマトスープの味をみて、すこし塩とブラックペッパーを足す。満足気にうなずくと、コンロの火を止めた。

 時刻は八時半。煌道家はよほどのことがない限り、休日は九時までに起きてくるようになっている。八時ごろから朝食を作り始めるため、できればできたてを食べてほしい飛龍と、後片付けのことを考えた際にできたルールだった。ちなみに後片付けは毎日、飛龍以外の誰かが行うことになっている。

 末っ子の莉舞りむとは、さきほど挨拶をしたばかりだ。風夜と莉舞の兄である悠嘉はるかは、昨夜大学のレポートがあるとか言っていたため、まだ起きてくる気配がない。同じく、小説作家として締め切りに追われる一家の大黒柱、煉樹れんじゅも執筆のために書斎にこもって二日目。今回もかなりの手詰まりとみえる。妻の蓮霞れんかは、撃沈しているであろう夫のために蒸しタオルを持って行ったところだ。

 風夜が自力でこの時間に起きてくることはない。起きてきた日には、間違いなく季節外れの雪か槍かが降る。家族全員にそう思われているほど、彼女は朝に弱いし、寝起きも悪いのだ。


 時間を確認した飛龍は、上の戸棚からなにやら取り出すと、そのまま台所をあとにした。向かうのは、風夜の自室だ。

 煌道家は、まさしく屋敷である。二階建ての和館で、その敷地は広く、庭もあれば蔵と、剣術や体術の稽古場となっている小さな道場もある。

 風夜の自室としてあてがわれているのは、二階の一角だ。大正モダンな雰囲気で建てられた屋敷だが、一階は個々の部屋がふすまで区切られているのに比べ、二階はしっかりとした壁が境界となっている。出入り口はドアだ。造りの違いは、二階を各々の部屋に割り当てる目的で設計したからである。

 小さくぎぃ、とドアが鳴く。

 中は八畳ほどの広さがあり、勉強机と箪笥、本棚の上にはピアスが所狭しと入ったジュエリーボックス。無地の遮光カーテンが閉められているからか、やけに暗い。ベッドは窓から一番近いところにあるが、この暗さではほんのわずかに漏れる光も到底目覚めのスイッチにはなりえない。

 タオルケットを目許めもとまで引っ張って寝入っている風夜を一瞥いちべつすると、仕方ないとばかりに飛龍は息をついた。そして、両手に持っていたものをそれぞれ構えると、一呼吸あとにそれらを叩き鳴らした。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンカン!


 金属の混じる鈍い打撃音が部屋全体を突き抜けて、二階全体と一階にも木霊す。

風夜専用目覚ましとして、年中鳴り響いているのは、フライパンとお玉の打撃音だ。

かれこれ、十年近く前になる。その当時から寝起きが悪かった風夜は、現在に至る寝坊の常習犯だ。何か対策はないかと、当時見ていたアニメでやっていた方法を、面白がった悠嘉が飛龍にけしかけたのが始まりになる。まさか本当にやるとは思わなかった悠嘉が、冗談だと告げたものの、一度成功してしまったそれを、飛龍という青年は今日まで続けている。


 カンカンカンカンカンカンカンカンカンッ、ガン!


きっちり二十回叩き終わると、毛布にくるまっていた塊は、もぞもぞと虫になり始めた。

 枕に顔をつけて、まさに土下座の形で少しばかり止まっていたが、次の瞬間、はじかれたように風夜は目を覚ました。

 身体を起こした彼女は、さきほどとは打って変わって、荒い呼吸を繰り返す。それに少し首をかしげながらも、飛龍は声をかけた。

「おはよう」

 すると、びくりと不自然なまでに肩を震わせて、風夜がこちらを向く。

 浅い呼吸を繰り返し、大きく見開かれた目でじっと飛龍を凝視していたが、しばらくすると深呼吸に変わる。最後にふーっ、と息を吐きだし、おはよう、とかすれた声が返ってきた。

「どうした?」

「……久しぶりに、めっちゃ夢見が悪かった。化け物に、呼ばれた」

 それだけで事を理解した青年は、寝ぐせのついた頭をゆっくりとなでる。冷や汗なのか、ほんの少し湿っていた。

「っあー…。気の緩みすぎだって親父に言われる」

 無事夢から逃げ出せたことより、お小言のほうが心配な風夜である。

 夢を見ているときは、肉体を持たない精神体だ。その状態で化け物、妖怪の類と遭遇することはある。基本的には分が悪いため、逃げられると判断したら逃げる。逃げ切れないと思ったときは、応戦する。自分が不利な時、しなくてよい対峙は避けるのが基本だ。

 逃げ切れると思っていたが、化け物の気配に呑まれてしまった。自分の力不足が情けなくなって、くそ、と小さくつぶやく。

「何事もないなら、まずはそれでいいだろう。シャワー浴びてくるか?」

「んーいいや、腹減った」

「わかった。オムレツ焼き始めるから、着替えて降りてこい」

「ん」

 様子から二度寝をすることはないと判断して、風夜の自室をあとにする。術者に過度な心配は不要なことを、青年は知っている。

 割烹着がドアの向こうに消えると、風夜はもう一度深呼吸をした。なんとなく身体を動かすのが億劫おっくうだが、ここで動かなければ間違いなく朝食を食いっぱぐれてしまう。じとりと汗ばんだ手のひらが気持ち悪い。ぐっと寝間着でそれを拭うと、デニムとシャツを箪笥からひっつかんだ。

 カーテンの向こうは、真っ白な曇り模様だった。




 日差しの熱量が増す一方の今日この頃には珍しく、無地のキャンバスのような曇り空の下、風夜と飛龍は江ノ電に揺られていた。

向かう先は、鎌倉駅より約五分、長谷だ。長谷駅からほど近くには「花の寺」として親しまれている長谷寺が建立している。大きな赤提灯のある山門、その奥は春なら桃、桜、牡丹、躑躅つつじ、夏なら睡蓮、紫陽花、花菖蒲、百合、秋なら彼岸花、萩、菊、楓、冬なら椿、蝋梅、山茶花さざんかと、四季折々の花々が美しい庭を彩る。最盛のころは過ぎてしまったが、特に梅雨から七月初旬にかけて、紫陽花を愛でに来る人で、毎年長谷寺も大いに賑わいを見せる。

一度盛りのころに行ってみたいのだが、行動には移せずにいた。というのも、過去に一度、仕事帰りに立ち寄ろうとした際、受付前に「ただいまの整理券のお時間は、十八時です」と書かれた立て看板を見て、即時回れ右をした経験があるのだ。


 閑話休題。


 長谷駅から極楽寺のほうへ歩いて五分ほど。目的の骨董店「わらしや」は、今日も妙なノスタルジックさを持ってそこに建っていた。懐かしさと懐古の落ち着き、しかしそこに混じる、何とも言えない胡散臭さ。それは大いに風夜の主観が影響していることは、彼女自身気づいている。

「こんにちはー、煌道でーす」

 がらりと、ややすすけたガラス戸をスライドさせた。白檀のような香りが鼻をかすめる。ここはいつも、ほこりの匂いがしない。

「おー、こっちにいるよー」

 男性の間延びした声が、奥のほうからする。店主が奥から客を、というより風夜を呼ぶのはいつものことだ。骨董品の谷を進み、右に一度折れると、古本屋もかくやとばかりの本の山が現れる。そこにできたくぼみに、紺の作務衣の背中が見えた。

藤治郎とうじろうさーん」

「おー、風夜くん、飛龍くん。来たねぇ」

 グレイヘアの髪に、銀ぶち眼鏡。顔に刻まれた皺は、生きた年数を物語っている。しかし、溌剌はつらつとした生気に満ちているせいか、齢七十を越えた老人には見えない。

 彼はこの骨董店「わらしや」の店主、名前を童守わらしもり藤治郎という。

 童守の一族は、煌道家と縁深い。家業として廃れてしまって久しいが、童守は代々陰陽師の家系だった。今はその血が薄れ、第六感的勘の良さと呪術の蔵書を残すのみとなっている。この骨董屋は、藤治郎が始めたもので、普通の骨董品から、勘の良さで見つけてきた良くも悪くも訳あり品、加えては呪具の類が無作為に転がっている。そんなある意味節操なしなこの店は、煌道煉樹が贔屓(ひいき)にしている。その理由いわく「必要なものがだいたい揃っているから」とのことだ。本日風夜は、その「必要なもの」を受け取るお遣いの任を受けていた。


「荷物受け取りに来ました。親父、電話で話したって言ってたんですけど」

「うん、事前にお電話いただいていたよ。今、棗瑪なつめに探してもらってるから、ちょっと待っててくれるかい?」

 今お茶を淹れるよ、と藤治郎は電気ポットのほうへ向き直った。近くにある木製の椅子に座った二人は、藤治郎の淹れた薄めの緑茶をいただく。かなりの回数足を運んでいるが、夏であっても冷たい飲み物が出てきたことはない。身体はますます火照るばかりだが、それでも彼の淹れるお茶は、おいしい。

「一時間前には声をかけていたんだけど、ちょっと手こずってるみたいでね」

「一時間? 珍しいですね、棗瑪がそんなに時間かかるなんて」

 棗瑪というのは、藤治郎の孫で風夜と同じ高校の同級生だ。一応、幼馴染にもあたる。

 童守棗瑪は、かなり勘のいい人間だ。感じることに長けているとも言える。視る力はないが、棗瑪が「よくない」と感じた場合、十中八九よくないものにあたる。そんな彼の特技は、探し物だ。なんとなくこっちにあるかな、という勘が恐ろしく働く。ざっくりとした整理しかされていないこの店で、その勘は大いに役立っていた。

「っだー! やっと見つけた!」

 入口近くのほうからだ。

 なんであんな奥まったところに、なんていうぼやきが近づいてくる。角からひょこりと現れた棗瑪に、よう、と声をかけた。

「へぁ? あ、風夜たち、もう来てたのか。ごめん、待たせちゃったな」

「そんなに待ってねぇよ。珍しいな、こんなに手間取るの」

「ここらへんにあるってのはわかったんだけど、そこからがぜんっぜんわかんなくって。じいちゃん、これ訳あり系のやつだったのか?」

「多分なぁ。煉樹さんが欲しいって言うのは、ほとんど訳ありだよ」

 朗らかに笑う店主に、風夜はややひきつった笑いを浮かべるしかなかった。

二人の目には映っていないが、この骨董屋には付喪神つくもがみやいたずら程度の力しか持たない、小さなあやかしが出たり入ったりしている。こうした古いものは、古いというだけで憑かれやすくなる。また、それが密集するところには、善悪関係なくいろんなものが寄ってくる。しかし、害がないであろうものが、出たり入ったりするだけで済んでいるのは、童守という名が示している。


「で、見つけたのはこれな」

 差し出されたものは、手のひらに収まる大きさの桐箱だ。やけに仰々しいな、と思いつつ開けると、中身はキメラをかたどったブローチだった。あんぐりと開けられた口に、赤瑪瑙あかめのうがくわえられている。

 キメラは、様々な動物の継ぎ接ぎになっているモンスターで、語源の由来となったキマイラは、ライオンの頭に山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ。日本でも「ぬえ」と呼ばれている。鵺は『平家物語』や『源平盛衰記』等に登場する妖怪だが、キマイラと違い、その姿かたちは文献によって様々だ。

 ブローチのキメラは、虎の頭に狸の胴体、蛇の尻尾、飛膜のある翼がはえていた。よく見ると四肢には鋭い鉤爪かぎづめがあり、一見するとドラゴンにも見える。細工は美しいが。

「ただのブローチ、だなぁ」

 風夜は首を傾げた。桐箱にブローチという、ちぐはぐさはあれど、煉樹がリクエストしてきた品としては、何の変哲もないもので、拍子抜けしてしまう。

「え、ただのブローチなの、それ」

「おう。目くらましの術らしきものもかかってないし、付喪神になるほど、歳を経てなさそうだしな。見た感じ、まじないもかかってない」

 そんなブローチをなぜ煉樹が欲しがるのか、疑問ではある。が、下手につつくと間違いなく藪から蛇が出る。危うきには近寄らず。今回の任務は、あくまでお遣いなのだ。

「それにしても、風夜くんがそれを持ってここに来るのは珍しいね」

 眉間にしわを寄せながら、ブローチを確認する風夜に、藤治郎が言う。彼の目線の先には、椅子にもたれかけた竹刀袋があった。

 深紫こきむらさきの布地に、ぎろりと睨みを利かせる、赤みを帯びた黒龍の留め具。目貫めぬきを加工して作られたそれは、かつてわらしやの品のひとつだった。小さいながらも、立派な倶利伽羅龍であるこれは、なかなかの暴れ龍でもあった。わらしやに出入りする人畜無害な妖たちに、毎日牙を剥いていたところを風夜に気に入られ、五年ほど前から竹刀袋の中にある霊刀の護りを務めている。


「今日ちょっと、いやな夢を見たんです。しばらくは用心のために、持ち歩こうと思って」

 深紫に包まれているのは、刀である。中反りで、身幅は二尺三寸。刃文は直刃すぐは調に小乱れ、小丁子しょうちょうじが混じる。刀身を守る朱鞘も美しい、煌道家が持つ霊刀の一振りだ。無銘刀だが、雪輪文様の鍔と朱鞘から「紅雪こうせつ」の通称を持つ。普段は風夜の愛刀として扱われている。余談ではあるが、持ち出しの際は万が一のために、目くらましの術と軽い幻術がかけられている。

「なるほどねぇ。杞憂きゆうだといいねぇ」

 実に愉快とばかりに笑う藤治郎に、風夜は顔をひきつらせた。類は友を呼ぶ。煉樹のそれとそっくりな笑いに、のどまで出かかっていた悪態を胃まで戻した彼女は、手に持っていたブローチを軽く持ち上げた。

「これ、確かに受け取りました。飛龍、会計」

 風夜にうながされた飛龍は、ショルダーバッグから煉樹に持たされた茶封筒を取り出し、藤治郎へ手渡した。藤治郎はちらと中身を確認すると、確かに、と言って本の山の奥にある金庫にそれを仕舞う。

「そんじゃ棗瑪、また月曜にな」

「うっす。気をつけてなー」



 白檀の香りの店を出ると、雲が少し晴れて、裂け目から濃い青が顔をのぞかせていた。梅雨の名残のような湿気が、じとりと張り付く。

「さーて、帰るか」

「するがやには寄るぞ。どら焼き買ってきてほしいと、要望があった」

「え、誰から?」

「蓮霞だ」

 駄賃も多めにもらってる。

 財布の入ったショルダーバッグをぽんぽんと叩く飛龍の目が、いつもより少し輝いている。風夜同様、甘いものよりは、塩気のあるものを好む飛龍だが、贔屓にしている店のどら焼きに目を輝かせる様は、小さな子供のようだ。

「りょーかい。あ、どうせだから、御霊神社にも寄ってこうぜ。名誉宮司様に久しぶりに会いたい」

 御霊神社という名の神社は全国各地に点在しているが、風夜のいう御霊神社は、鎌倉権五郎神社のことである。小路を抜けた先にあるその神社は、境内のすぐそばを江ノ電が走っている。時季になると紫陽花と江ノ電を同時に見ることができるため、多くのカメラマンでにぎわう。その神社の名誉宮司として、ぶち猫のウッシーが暮らしているのだが、時折旅に出ては捜索願を出されていた過去がある。

 七月ともなれば、花の盛りはとうに過ぎている。すでに境内は静寂を取り戻し、冷えた金属のような空気で満ちていた。心地いい霊気である。社務所の窓口を見るが、まどろむ名誉宮司の姿はなかった。タイミングが悪いな、と少し肩を落とす。本殿に参拝を済ませ、境内社の神々にも挨拶を終わらせると、ゆっくりと境内を歩き始めた。そのうしろについてくる飛龍は、相変わらず仏頂面だ。

二人しかいないなか、葉掠れの音が響く。頬をなでる風に、水の気配がする。

「すぐじゃないが、降るな」

 天を仰いだ飛龍がつぶやく。空の様相は変わっていないが、龍である彼は水の、特に雨の気配には敏感だ。

「宮司様も出てこないし、するがや寄って帰るか」

「ああ」

 鳥居をくぐってすぐ、遮断機に行く手を阻まれた。右のほうから、江ノ電の滑走音が近づいてくる。

線路脇の紫陽花は、七割ほどがすでに色を失い、残りが出遅れて盛りを迎えるものと、朽ちる途中のものとが入り乱れていた。

「まだ咲いてるもんなんだな。ウチの紫陽花はもう全部剪定したんだっけ?」

「ひとつふたつくらいは残してるが、枯れかけのものは剪定した」

「そか。明月院のほうはまだ見れたりすんのかな」

「七月半ばには剪定してしまうようだが、今日あたりならまだ見れるんじゃないか?」

 江ノ電が警笛を鳴らしながら、前を通り過ぎて行く。車体が過ぎ去って数秒後、ゆっくりと遮断機が上がる。

 あとは、するがやに寄るだけか、と線路に足を踏み入れた。風夜は無意識に、ボディバッグの中に入れていた桐箱を、バッグ越しにぽんと触れる。一瞬目線が下がり、瞬きが一つ、落ちる。線路と小路の境界線に右足が届いたとき。


 風が変わった。


「っ!」

 線路を抜け、顔を上げた風夜の鼻腔に、なんとなく覚えのあるにおいがかすった。どろりとした、甘いにおい。途端に強烈に漂い始めるそれに耐えられず、指で鼻をおさえて、下を向く。

 瞬き一つのうちに、立っていたアスファルトの地面は、色濃い土に変わり、首にひんやりとした水気が降り注ぐ。

 雨が、降っていた。

「風夜!」

 声とともに、肩に手が添えられる。プラチナブロンドの髪に沿って顔を上げると、やや顔をゆがめた飛龍が、額同士がくっつきそうなほど、ぐっと顔を近づけてきた。

「近い」

「大丈夫そうだな」

「一言目がそれかよ」

 体勢を立て直すと、飛龍はすでにいつもの無表情に戻っていた。

 あたりは白くけぶっている。飛龍越しに見える紫陽花は、まるで六月の花の盛りの如く、緑の中に色彩を落としている。雨特有の薄暗さは、夢の時よりひどくなっていた。

「境か?」

「多分。夢で連れてこられたから、境目ってよりは、閉じた世界だろうけど」

「今朝の夢か?」

「おう」

 呼吸が難なく行えるくらいには、においは薄れていた。

 いや、鼻がバカになってんのかもな。

 隣に立つ青年があまりにも普段通りで、逆に自分がおかしいのかとすら思ってしまう。

「てか、お前よくついてきたな。忠犬か?」

「俺は龍だが」

「そういうこと言ってんじゃねぇよ」

 じゃあどういうことだ、と言わんばかりに首をかしげる飛龍が、妙に幼く見える。この天然め、と内心毒づいた。


「で、ここはどんなところなんだ?」

「知るか。夢だと、全身に口が生えた女の化け物がいた」

「それだけわかれば、まずは十分か」

 胸元の高さに掲げられた右手の中で、淡い光の粒子が形を成していく。槍の穂先に、左右についた三日月の刃。足元まで伸びるつかも含め、すべて銀色をした方天戟姿ほうてんげきがを現した。

 本性が白銀龍である飛龍は、術による対峙方法を持っていない。自分の霊気を実体化させるこの技は、煌道家に拾われてから、ほぼ独自に身につけたものだ。

「久しぶりに見たな、その方天戟」

「現世で出したら目立つだろう」

「そういう意味で言ったわけじゃねーんだけどな」

 竹刀袋の留め紐を緩め、紅雪を取り出す。くるくると巻いた竹刀袋をボディバッグに入れると、鯉口を切り、抜刀する。

 まさに、夢の続きのようだった。

 雨滴を感じさせない霧雨と、それに似合わないさあさあという雨音。偽の花弁は、しっとりと濡れて色深く。夢と違うのは、地に足をつけている感覚があることだ。ここは現世ではないが、現実だ。

「そういや飛龍、変なにおいとかするか? 俺、鼻バカになってるからもうわかんねぇんだけど」

「ここに入り込んだ時に、やたら甘い腐臭はしたな」

「今は?」

「するな。まぁ、俺の鼻もまともかどうかは、だいぶ怪しいが」

 それもそうだな、とつぶやいた風夜は、青年と背中合わせになると、周囲を見渡し始めた。

 香りは一種の結界だ。何かを守る、何かを封じ込めるような用途の結界にはなりえないが、場を支配する効力はある。科学的にみれば五感の支配にあたる。

「夢で、その化け物の目的はわからなかったのか?」

「おかげさまで、わかる前に目が覚めたよ」

「そうか」

 あの時対峙した女からは、何も感じ取れなかった。そんな余裕がなかったとも言える。自分の失態具合に舌打ちを打ちたくなるが、思いとどまった。

 見えない糸がぴんと張りつめる。


「っ、左だ!」

 青年の声が耳をつんざく。

 反射的に前方に跳躍した風夜は、着地してすぐに向き直った。どす黒くもやや赤みを残した腕が、枝のように白靄しらもやの向こうから伸びていた。手のひらから生えた口が、赤茶色の涎をたらしながら、湿った土を貪っている。地に届かない腕まわりの口たちは、うらやむように同様の粘液をこぼし、がちがちと歯を鳴らしている。粘土をこねるような、ぐちぐちという音が、肉をしゃぶるそれと似ていて、背中に悪寒が走った。

 しばらく呆然とそれを見ていた二人は、ずるり、ずるりと近づいてくる気配に気づく。

 横一列に植えられた紫陽花の一部が、ちいさくしゅうしゅうと音をたてながら、茶色に枯れていくのが見えた。気配がより近くなる。風夜は次第に枯れていく紫陽花を中心に、無傷な偽の花弁たちが、みるみる色を移ろわせていくのを認め、一瞬目を見開く。色とりどりの水玉だった花は、いっそ寒気を覚えるほど鮮やかな青になっていった。

 強くなっていく甘ったるいにおいに、風夜はややげんなりした様子で、顔をひきつらせた。

「俺、もうしばらく甘いもんいらねぇ」

「残念だな、間に合うんだったら、するがやのどら焼きは買って帰るぞ」

「鬼か」

 方天戟を構えた飛龍が、においの元凶に向かって、ぶんっと横薙ぎに払う。風切りの刃が、白い雨滴も、色褪せた紫陽花も切り裂いていく。びちゅり、と膿が飛び散るような音がしてすぐ、手の平、腕、胴体、顔、すべての口から金切り声が発せられた。

 思わず鞘を持った左手で左耳を押さえた風夜は、晴れた靄の向こうで、あの女の化け物が、もうほとんど残っていない髪を振り乱しているのを目に留める。頭が動くのと一緒に、唾液が周囲に散る。呼吸三つ分金切り声が続く中、ぐぼ、と胴体のひとつの口腔から、土色の腕が出てきた。唾液に濡れたそれは、しばらくぶらぶらと揺れてから、ぬっと風夜めがけて伸びてくる。

「っ」

 身構えてすぐ、紅雪の刃と腕がかち合った。刃が肉に食い込む。殺しきれなかった勢いに、踏ん張った足が一歩分後退した。腕の筋肉がびりびりとしびれる。食いしばった奥歯がちいさくざり、と悲鳴を上げる。裂けた皮膚から、どろりとやけに粘り気の強い血がしたたり、ぽたぽたと地面を赤黒く染めていく。

 しばらく拮抗していたが、さきほどと同じ風切り刃がばつっ、という弦を断ち切るような音をたてて、肉を切り裂いた。一瞬前のめりに体勢を崩した風夜は、しかし持ち前の体幹をもってすぐさま刀を構え直す。本体から切り離された腕は、あきらかな意思を持って芋虫のようにうごめいていた。くるりと逆手に持ち替え、手の甲に紅雪を突き刺し、そのまま真っ二つに一閃する。それはぼろぼろと水気のなくなった土のように、瞬く間に形を崩していった。

 本体に残ったほうは、風夜から飛龍に攻撃対象を変えたらしい。うねる三本の腕を、方天戟で対峙している。肉を断つなんとも鈍い音が、立て続けにあたりに響く。断ち切るたびにその切り口から、あの粘り気のある血が方々に散る。青年のプラチナブロンドも被害に遭っているが、さして気にしていないのかそれとも気づいていないのか、その表情が動くことはない。

 飛龍の背後に迫っていた腕を、上段に構えた風夜が斬り落とす。顔の右半面が、吹き出す血液に濡れる。それに舌打ちした風夜は、すぐさま飛龍の背中につくと、肩口の服でそれを拭う。

「なんなんだあれは」

「俺が知るかい。……似たような妖怪は知ってるけど、タイプが違う」

「タイプが違う?」

「よく見ろ。ありゃ、元はほとんど害のない残留思念の集まりだ。なんかが軸になって、寄り集まってる。多分、あの口全部それだぞ。俺の知ってるのは、あんな寄せ集めの化け物じゃねぇ」

 呪われた末に妖怪になった女だよ。

 ちっ、と舌打ちが飛ぶ。


 悪女、野風のかぜ。時は江戸、将軍は徳川家斉とくがわいえなりの時代に刊行された読本よみほん天縁奇遇てんえんきぐう』に登場する妖怪である。海賊の妻であった野風は、祟りを受け、全身に九十九の口が生じる奇病を患い、あげくには我が子までも喰らってしまう。祟りを受けることとなった背景や我が子を食らってしまったあとの話は存在しているが、今は関係ないため割愛。

 ひとりの人間が妖怪になるのと、ひとつのものを軸に寄せ集まってできた妖怪とでは、いくら似ていても性質が違う。人気ラーメン店のラーメンと、カップラーメンくらいの差がある。

 残留思念とは、人が死した際に残った想いの影だ。未練ともいう。ひとつひとつは、風が吹けば消えてしまうような存在であり、あちこちをはびこっていても、そう害になることはない。しかし、このようにぐちゃぐちゃに混じりあってしまうと、それはものと呼ばれる。恨み、死への後悔、もっとこうしたかったという欲求、どうして自分がという疑問。それが接ぎ木のようになっていて、腕、肩、顔、足、胴体を形作っている。

 まさに、個々の意志が生き残ったまま継ぎ接ぎにされた、キメラのような。

「…………あんの親父、まさかな……」

 ボディバッグの中の桐箱を思い出して、風夜は低くうなった。

 女は断面だらけになった腕を鞭のようにしならせている。お互い様子見といったところで、硬直状態が続く。

「それで、どうするんだ?」

「正直どうしたもんかなと思ってる。物理的にぶった斬って、どうにかなりゃいいんだけど。全部ごっちゃになってて、核がどこにあんのか、見ただけじゃわかんねぇし」

 ぐっ、と歯噛みする。

 心臓や眉間、脳幹など人間のようにわかりやすい急所があればよい。だが、小さなものが寄り集まったものは、決定打になるものを持たないことも多いのだ。目の前の化け物も、急所になりうる核が一見わからなくなっている。

「全部斬ればいいんじゃないのか」

「お前のそーいうとこ、嫌いじゃないぜ。…ある程度斬ったら、隙見て俺が水晶をつっこむ」

「わかった」

 一言そう返した青年は、とん、と軽く大地を蹴った。数瞬遅れて触手になった肉塊が飛龍めがけて飛んでくる。涼しい顔のまま、振りかぶった三日月の刃でそれを斬り捨てると、腕の付け根の下のほうに穂先を突き刺した。ぐっと柄を握った飛龍は、そのまま右腕を振り上げて、胴体から腕を斬り飛ばす。びしゅっと噴き出る血に一瞬顔を歪めてから、石突で傷口を突くと、女はそのまま五メートルほど吹き飛んだ。

 人外の怪力恐こえぇ。

 そう思いつつ、吹っ飛ばされた女の背後に走り寄った風夜は、胴に横一文字を薙ぐ。その手応えに舌を打った。浅い。

 斬られた感触で風夜に気づいた女は、うあぁぁ、と唸り、背中の口からだらりと犬のように長い舌を垂らした。ぼたぼたと粘液が滴る。ぁがあがと声にならない声を漏らし、後退しようとした風夜の左腕をべろりと舐めた。

 すぐさまバックステップで距離をとる。確認する間もなく、舐められた箇所がぞわりと粟立つ。そこを一瞥すると、赤茶色の唾液の中に、点のように小さくどす黒いなにかが蠕動ぜんどうしていた。

「マジかよ、くそっ」

 紫陽花の垣根に体当たりするようにして、その陰に身体を滑り込ませる。左手の鞘に刀を納め、そのまま右手でボディバッグをあさる。中から小さなジッパー付きの袋を取り出し、中身を左腕にぶちまけた。中身は破邪の札の灰を混ぜた灰塩だ。普段、仕事用アイテムは左手の紫水晶ぐらいしか持ち歩いていないのだが、紅雪同様用心のためと入れていたのが功を奏した。

 粘液は灰塩を浴びてしゅうしゅうと煙を出し、乾いた泥のようにぼろぼろと腕から剥がれ落ちていく。少し赤くかぶれたが、それ以外に害はみられない。

 紫の紫陽花に集まった水滴を刃に擦り付けた風夜は、女と対峙する飛龍に向かって叫ぶ。

「飛龍、退いとけ!」

 言い終わるか否か、十文字に刀を振るう。斬撃がすぐ近くに迫っていた舌を断ち切り、次いで無防備になった背中に十字が刻まれる。腐りかかっていた肉がびちゅ、と音をたてる。白い背骨が露出するが、それを認める間もなく、ボディバッグから取り出した六角錐の紫水晶を、十字傷に投げつけた。細身の水晶が腐敗しかけていた肉に、半分ほど食い込む。

 痛みにもがく女の腕を、舌をすべて斬り落とした飛龍は、ちらと風夜のほうを確認すると、後ろに跳躍して距離をとる。ショルダーバッグから感触だけで風夜と同じジッパー付きのビニール袋を探し当てる。中身は水晶のさざれ石だ。

 風夜の霊力は紫水晶と相性がいいが、飛龍の霊気は水晶と相性がいい。水晶は「水精すいしょう」とも言われている。彼の本性である龍が水を司る存在であることが関係しているのだろう、というのは煉樹談だ。

 さざれ石を一掴みすると、それをそのまま化け物の足元へ振り撒く。大地に染みていた血の穢れが浄化されていく。すぐさま、鋭い柏手がふたつ響いた。

けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおほかみ筑紫つくし日向橘ひむかのたちばな小戸をど阿波岐原あはぎはらみそはらたまひし時に、せる祓戸大神等はらへどのおほかみたち諸々もろもろ禍事罪穢まがごとつみけがれらむをば、祓へ給ひ清め給へともうすことを聞こえし召せと、かしこみかしこみ白す!」

 祓いの祝詞のりとが完成する。飛龍の霊気で作られた簡易の霊場に、神の神威かむいがゆらりと陽炎のように形を成す。

「ひいふうみいよ、木枯けが気枯けが身罷みまか翳留かげとどめ在りたるを、くさび祓ひて水流みなるることをいざ聞きさしめ、きこし召せ!」

 霊力の波濤はとうがふたつの柏手かしわでにのって広がっていく。祝詞とはらえの呪文に呼応するように、化け物にのめりこんだ紫水晶から生じる風夜の霊圧が、じわりじわりと内部を押しつぶしていく。めり、めき、ぐち、ぐちゅ、と骨が折れ、肌を突き破り、肉がちぎれる。

 いつの間にか、さあさあと鳴っていた雨音はやんでいた。

 水に濡れた泥人形のごとく、最期は人の形すらなくして、大地にどろりと溶けていく。肉は土に同化し、やがて跡形もなくなると、そこに残っていたのは歯がいくつも折れて、まるで老婆の上顎のようになってしまったつげ櫛だった。




「おそらく、櫛が苦死くしに転じたんだねぇ」

 するがやのバターどら焼きを一口飲みこんだ煉樹は、風夜からの報告を受けていた。

 この異界からどうやって抜けようかと思案していた二人を裏腹に、次第に晴れていった白靄から現れたのは、見知った鳥居に紫陽花の垣根、そしてにゃあんと鳴くぶち猫宮司であった。宮司は二人が目をしばたたかせたのを確認すると、そのまま何事もなかったとばかりに、境内のほうへ歩いていった。何はともあれ、現世に戻ってきたこと、肩口でぬぐったり、青年の髪に飛び散っていたりしていた血が、きれいさっぱりなくなっていたことと、二重の安堵に風夜は深々と息をついた。

 方天戟を霧散させた飛龍の頭の中は、もうするがやのどら焼きに切り替わっていて、置いてけぼりにされかけた風夜は、店の外から漂ってくる甘くおいしそうなにおいに、思わず顔をしかめた。

 好物のにおいなのに、なんでこうもげんなりしなければならんのか。

どこにぶつけたらいいかわからない苛立ちを抱えつつも、二人はなんとか帰宅することができていた。


 桐箱に入っていたブローチは、中のクッション材もあって、傷はついていなかった。話を聞くと、煉樹の目的はブローチというより、キメラがくわえている瑪瑙のほうであった。

「蓮霞に護りのものが欲しいって言われててね。なかなかいい瑪瑙が手に入らなかったんだけど、わらしやにそういえばいいのがあったことを思い出したんだよ。まさか、ブローチだったとは思わなかったけれどね」

 というより、ブローチの一部だったことを忘れていたらしい。

 蓮霞は強いが、守護の力には疎い。攻撃は最大の防御を地で行くので、煉樹が時折お守りを作ってやるのだ。その惚気のような独占欲のような塊は、ほとんどがアクセサリーに加工され、妻のどこかしらで美しく輝いている。

 俺、夫婦間のプレゼント買いに行かされたのか。

 何とも言えない脱力感に襲われるが、今更だろうと持ち直す。もう何年この夫婦の子供やってると思ってるんだ。こんなことで振り回されてどうする俺。

「で、その帰りに妖怪退治してきたわけだ」

「そーです。残留思念があっちこっち継ぎ接ぎされてる、キメラみたいな化け物だった。もう明確な境界もなくなってて、ぐちゃぐちゃだったけどさ。核になってたのは、ぼっろぼろの櫛。歯がもういくつもなくなってた」

 その櫛は、気が付いたときには砂のように崩れ、風に散っていった。櫛に宿っていたなにかが祓われて、形を保つことができなくなったのだろう。

 くし、とつぶやいた煉樹は、なるほどねぇと笑う。

「おそらく、櫛が苦死に転じたんだねぇ」

「……それって、数字のよんが『死』と音が繋がるのと、同じ?」

「そのとおり。その昔、男が女に櫛を送るのは求婚方法のひとつだったけど、それも『苦が多くとも、ともに死ぬまで寄り添って生きよう』っていう洒落をこめたものだと一説には言われていてね。一方、そんな櫛を拾うことがあると『苦死』を拾うと言われて、縁起が悪いとされてきたんだ。そんなこともあるから、櫛には念がこもりやすい。大方、元の持ち主の未練を吸ったかして化けた櫛に、似たような未練を持った残留思念が寄り集まって、その女になったってところだろうね」

 病魔などから来る苦しみ、死への恐怖、生への渇望。おそらく、櫛の名が持つ音に呼応して、それは宿った。穢れがあると、そこに新たな穢れが降り積もっていくのは世の常だ。関係のない負のかげりを集めてしまうほどの呪具と化していたのだろう。

「ともあれ、紅雪も久しぶりにお前に振るわれて、ご機嫌じゃないのかい?」

「逆。ちょこっとだったから、不完全燃焼気味っぽい。霊気駄々洩れだったから、あとで飛龍に手合わせ付き合ってもらう予定」

「はは、持ち主に似てじゃじゃ馬だねぇ」

「やかましいわ」

 飛龍が淹れてくれたダージリンが香る。鼻から抜ける青っぽさが、終わりかけた梅雨を思い起こさせる。雨催あまもよいだった空からは、ぽつぽつと雨滴が落ちてきていた。





◆  ◇  ◆  ◇




 雨のにおいがする。



 そこは、いまもさあさあと鳴いていた。

 薄鼠うすねずの曇天からこぼれるものはなく、しかしずっとさあさあと鳴いている。

 青、青紫、紫、赤紫、薄紅、紅。

 花の盛りはこのことと、手鞠がさあさあと笑っている。

 しかしそれは突然ぴたりとやんだ。

 雨のにおいも、もうしない。

 やがて手鞠は、葉脈を残してすべて枯れ果てて。



 境界の紫陽花はきゃらきゃらと、最期の咆哮を終えた。




◇  ◆  ◇  ◆

                                                                   










2021.8.15発行 北鎌倉祓屋家業『花影の綴』収録

本作含む全6編収録『花影の綴』絶賛発売中

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