ある日の小話
それは完全な一目惚れだった。
いつものように原付で家に帰る途中。
この先の、『我が家』へと続く坂道に差し掛かったところでふと思った。思い出した。
一目惚れだったんだ。俺は。今は一緒に暮らす恋人である、真澄に。
サッカーチームのコーチをしていた。
そこを辞めて、あまり人と接することのない郵便配達員をしていた。
人と関わるのを、その当時俺は極力やめていた。
初めてできた恋人を深く深く傷つけて失って、職場でもチームの保護者からも奇異の目で見られてあらぬ噂をたてられて傷ついて。
少し人と距離を取ろう、置こうなんて、仕事中はほぼひとり、ほぼ挨拶しかしない郵便配達の毎日で。
新しく任された配達エリアの、坂の上のレトロな一軒家。そこで。
いつもなら、挨拶だけ。
どんなに配達に行ったところで、挨拶だけ。
顔も見ない。基本ポストに入れて終わりだし、手渡しのときだって別に。
そこに初めて行ったときもそうだった。
外に人影が見えたから挨拶した。郵便ですって。
『こんにちは。ありがとうございます』
耳に心地良い声で、思わずその人の顔を見た。
思わず見て。
一目惚れ、だった。
その人は寂しい目をしていた。
いつもいつも俺を………っていうか郵便物を待つように外に居る真澄は、いつもいつも寂しい目をしていた。
こんにちはって笑ってくれるのに、その顔は笑っているっていうより泣いているように見えた。
笑って欲しい。
そう思った。
坂を一気に登って、車庫、真澄の車の横に原付をとめた。
毎日のように郵便配達に来ていたこの家が、今では『我が家』。
門を開けて入る。
玄関の鍵を開けて入る。
「ただいまー」
靴を脱いでヘルメットを脱いで、ヘルメットを靴箱上のフックにひっかけても、中から返事はなかった。
いつもならだいたい居間か仕事部屋から出て出迎えてくれるのに。
昨日、絵本の原稿は仕上げたって言ってたはず。
締め切りが近いイラストの仕事もないはず。
ってことは夕飯作りに夢中?
それとも。
カリカリカリ。
居間のドアを引っ掻く音。
ドアを開けてやると、我が家の愛犬、こまめが出てきて飛びついて来た。
「ただいま、こまめ」
尻尾をぶんぶん振りながら飛びついてくるこまめを、しゃがんで撫でた。
撫でながら部屋を見た。
声がしない。おかえり七星。お疲れさまって。
思わず顔を見たくなるぐらい、俺の耳に心地良い真澄の、俺の最愛の恋人の。
真澄は。
真澄は、ラグの上で横向きになって。
………寝てた。
多分そのすぐ横には、さっきまでこまめがべったりくっついてたんだろう。
こまめのおもちゃが真澄の横に転がってる。
想像できて、笑える。
こまめが落ち着くまで撫でてやって、手洗いうがいをして、そして。
「真澄」
愛しい愛しい名前を呼んで、柔らかな髪を撫でた。
こまめはこまめで、真澄の髪の毛に鼻を突っ込んでにおいを嗅いでる。
もぞって、動く。
その首にはお揃いのネックレス。
左手薬指にはペアリング。
もう恋人なんて二度とできないだろうと思ってた俺にできた、真澄は最愛の、そしてきっと最後の………恋人。
「ただいま、真澄」
「………ん?くすぐったいよ、こまめ」
「こまめじゃねぇ、俺」
「………なな、せ?」
目が開いて。
ぼんやりする真澄が俺を見上げた。
「ただいま」
「………七星」
キス。
おかえりを聞く前に、幸せそうに笑む真澄のその唇に唇を重ねた。
ふわって真澄の腕が首に絡む。
愛しい、愛しい愛しい存在。
「………え、あれ?七星?」
「うん。俺。ただいま」
「ただいまって、待って今何時?」
「7時半」
「………え?」
「爆睡?」
「………爆睡」
くすくすくす。
笑う俺に、ごめんすぐご飯作るって。
首に絡めてた腕を解いて起き上がる、から。
「入稿してほっとしたんだろ。いいよ。食いに行こ」
「………うん」
抱き締めて、お疲れって。右耳に言う。
ありがと七星って。また腕が。
幸せ。
幸せで幸せで。本当に。
「先にこまめの散歩行くか」
「うん、行かなきゃ。こまめ〜、ごめんね〜っ」
起きた真澄と散歩って言葉に尻尾を振るこまめと、謝りながらこまめを撫でる真澄。
愛しい、愛しい愛しい、この瞬間。
大切にするよ。この、今。この目の前を。
決めたから。もう、後悔するような選択はしないって。絶対しないって。
「七星」
「ん?」
「おかえり。お疲れさま」
「………うん」
大切に。
大切に。
大切にするよ。絶対に。
真澄とこまめを腕にして、今日もそっと、俺は誓った。
おしまい
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