第165話
「真澄」
「ん?」
朝の支度が一通り終わった七星に呼ばれて、僕は洗い物をしている手を止めた。
里見は帰る準備を始めていて、台所には居ない。
「俺今日午前の配達終わったら仕事終わりだから」
「………え?」
「いつも代わってやってるやつに代わってもらった。恩は売っとくもんだな」
にって七星がイタズラっぽく笑っている。
今、何て?
午前の配達が、終わったら?
今日もいつも通り、帰って来るのは夜だと思っていた。
そして里見が帰るのはお昼頃。
里見と暮らすことを夢見た家から里見が居なくなり、多分もう二度里見とは会えなくて、七星ともうすぐ暮らす家に夜まで居ない七星。
何年もひとりで暮らしてきたはずなのに、夜までのひとりがこわかった。
だから。
手についた泡を水で流して拭いて、僕は七星にそっと身体を預けた。
ふんわり抱き締められて、涙が出そうになった。
決して小さくはない僕を、すっぽりと包んでくれる大きく逞しい身体の七星。
でも、僕の心を内を、些細な波立ちを、誰よりも分かって支えてくれる七星。
「午前もなるべく早く仕事終わらせるから」
「………うん。ありがと、七星」
旋毛に七星の唇が乗るのを、目を閉じて感じていたときだった。
「本当に多いな。スキンシップ」
里見の少し呆れたような笑いを含んだ声が割って入ってきたのは。
離れようとした僕を、七星がわざとぎゅっと抱き寄せた。そうですよって。多いですよって。
「里見さん何時頃こっち出るんですか?」
「お昼頃にはって思ってるけど、最後に夏目とご飯食べてから帰りたいなっていうのが正直な俺の希望」
「じゃあ俺居ない方がいい?」
「久保くん仕事は?」
「午前の配達が終わったら終わりです」
「………そうか」
「俺居るのイヤだったら、飯後に合流するからいいですよ。里見さんが帰ったこの家で、真澄をひとりにさせたくないだけだから」
そうだなって、何故か納得している里見が僕を見る。
七星の腕に抱かれる僕を。
少し考えるみたいに僕を見て。
「………最後だから、ふたりにさせて欲しい」
里見は静かに、でも、はっきりとそう言った。
最後、だから。
最後。
今日で最後。これで最後。
里見は今日、奥さんと娘さんが待つ里見の家に帰って、僕は七星とこれから。
七星の胸元のネックレスに、気づいたら触れていた。
「見送りは俺も一緒でいいですか?」
「うん。ありがとう。久保くんには本当、色々と申し訳ない」
「俺が真澄にそうしたいだけです。じゃあ真澄、昼飯食い始めるぐらいで連絡して。すぐ動けるようにしとくから」
「………七星」
「俺がそうしたいだけだから、真澄もそんな顔すんな」
大きな手が僕の頭に乗る。小さな子を安心させるためにするみたいに。
安心。
僕には七星が居る。七星が居てくれる。居てくれている。
里見の前だけど、僕は七星の腰に腕を回してハグをした。
「………勉強になるよ。本当」
「何がですか?」
「俺は一度だって夏目にそんなことしたことがない」
「男同士ですからね。いい大人だし。ちょっと過剰かなとは思います。いつもはここまでしませんよ。でも」
「………でも?」
「里見さん絡みの真澄を間近で俺は見てますから。今日は過剰なぐらいがちょうどいいんです」
「………久保くんと居るときの夏目が、本当にキレイだと思う。俺はそんな顔にしてやれなかった」
「だからそれが、こういうのが足りなかった証拠ってことですよね」
「………そう。だから勉強になるよ。本当に」
話が一周回って戻って、七星は笑った。
里見も笑った。
「勉強になったんなら、家に帰ってやってくださいね」
七星に言われて里見は、やっぱり困ったように目を伏せて笑った。
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