第161話
「………何がって」
里見は困ったように呟いて、誤魔化すように僕の肩に腕をかけた。
そして僕を見て。
「………触って、いい?」
「もう触ってるよ」
「………そうだけど」
手が、大きくて、でも冷たい手が僕の頬に触れた。
「キスは、しないよ」
自分で言ったくせに自分でも分からなかった。
それが本気で出た言葉なのか。
冗談で出た言葉なのか。
里見の顔が、真剣すぎて。
「………しないよ。できない。あんなキス見せられて、あんな声聞かされたら」
「あんなキスって?」
「幸せそうだった。夏目がすごくキレイだった」
「あんな声って?」
「………幸せそうな………声、だった」
じっと僕を見ていた目が伏せられた。
そして手が頬から離れようとした。だから僕は、その大きくて冷たい手に僕の手を重ねて、冷たい手のぬくもりを頬に戻した。
「七星は僕に愛情と安心と幸せをくれる」
「………うん」
「里見は僕に不安と心配と悲しみしかくれなかった」
「………うん」
七星から僕に与えられるのは、僕への愛情。毎日の、何気ないことでの愛情。そこからの安心。だからの幸せ。
里見から僕に与えられていたのは、待っていていいのか、これで終わりなのかっていう不安。今度はいつ会えるのか、もう会えないのかっていう心配。そして、やっぱり………っていう、悲しみ。
僕が幸せそうに見えて僕の声が幸せそうに聞こえたのなら、里見との違いは、そこ。僕が何を持って、相手とキスをしているのか。抱かれているのか。
「やっぱりどうしたって許されない。もうこれで本当に終わりなんだ………って思ったら、眠れなかった。けど………」
「けど?」
「………けど、一番俺たちを、俺を許せていなかったのは、やっぱりどう考えたって俺なんだよな………」
「………うん」
そうだよ。
そうなんだ。
もしも僕たちが僕たちのことを許せていたら。
もしもせめて僕だけでもが僕たちのことを許せていたら。
違った今が、きっとある。
「幸せ?」
里見が聞く。
「幸せ」
僕が答える。
「………そうか」
その一言には、色んな気持ちが込められているように、聞こえた。
「………里見も、明日から幸せになるんだよ」
「………え?」
「僕のことは、僕とのことはこれでもう終わりにして、里見は里見でちゃんと幸せになるんだ」
「………」
「里見ももうさすがに分かったよね?僕たちが戻る可能性は万に一つもないって」
「十分すぎるぐらい、な。これでもかってぐらいに分かった。………本当にお前は、俺にはまったくもって容赦ない」
そこが、僕を見ている限界だったのか。
今度こそ僕の頬から手を離して、頬から後ろへと滑らせて、僕は里見の両腕にそっと抱き締められた。
僕もそのまま、里見に身体を預けた。
「ないよ。だって僕は、里見の幸せを願ってるから」
「………っ」
「もしも里見の命が残りあと僅かなら、その僅かを全力で里見を待っている人たちに注いで欲しい。全力で幸せにして欲しい。そして里見自身が全力で幸せになって欲しい」
「………」
黙る里見。
答えない里見に。
僕は里見の身体をそっと押して、その顔を見上げた。
ゆらゆらと、里見の目が潤んでいた。
それを見て、僕の視界もゆらゆら揺れた。
「七星が僕を幸せにしてくれた。でも七星との幸せは里見とのことがあったから。それってつまりは、里見が僕を、幸せにしてくれたってことだよ」
「………俺が?夏目を?」
「そうだよ。だから里見も幸せになってくれなきゃダメなんだ。里見が幸せってことは、僕が里見を幸せにしたってことだから」
ね?って。
泣きながら、僕は必死に笑った。笑みを作った。
でも涙が溢れて止まらなくて、きっと僕の顔は変になっている。
里見の目が優しい。
里見の目が生きている。
ずっと暗く淀んだ、死んでいるような目をしていたのに。
ぼろぼろ、ぼろぼろ。
涙は落ちて、里見の手を濡らした。
そんな僕を見て、笑う。笑む。里見が。
それは昔の里見の顔だった。
まだ僕たちに最初の別れが来る前の。
「夏目。お前を抱きたいって言ったことは、忘れていいよ」
「………え?」
「俺にはお前を抱くことはできない。俺にはもうその機能はない。だから、忘れていい」
里見との日がもう終わるのに、できていないひとつのこと。
できないまま終わりそうだった、ひとつ、が。
できない。その機能が、ない。
僕は里見の首に腕を絡めて、里見を抱き締めた。
里見。里見。何度も呼んだ。里見に抱かれるときにそうしていたように。
「………ん?」
「頑張ったね。いっぱいいっぱい頑張ったんだね」
身体に死を抱えるほど。唯一僕に示せる愛情が示せなくなるほど。
ぎゅうって、苦しいぐらい僕は里見に抱き締められた。夏目って。
「………夏目。好きだよ。ずっとずっと好きだった。………ありがとう」
うんって声は、もう出なかった。
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