第123話
「ちょっとひとりでぶらぶらして来たい」
里見が言った。
ひとりでどこに?何をしに?
不安で見た里見は、さっき出かけてくるって言ったときよりも落ち着いた顔をしていた。
さっきは本当に、思わず僕も引きずられておかしくなるぐらい、そのまま戻って来ないんじゃないかというような顔だった。ここに、この家に戻って来ないのではなく………。
「どこに?何しに?」
「決めてないよ。適当に。でも海は見たいかな。海を見て、懐かしい場所をぶらぶら、かな」
「もう暗いよ。明日一緒に車で行こう」
「今日がいい。ひとりがいい」
「………里見」
「大丈夫だよ。そんな顔しなくてもちゃんと帰って来るから。夏目も出かけて来ればいい。………久保くんに会いに」
「………どうして」
今一緒に居るのは里見なのに。どうしてそんな。
「しんどいだろ。俺と居ると」
「………え?」
「病人を間近で見てるのは、ずっと一緒に居るのは、しんどい」
まるで。
まるでそれを知っているかのような言い方だった。
確かに、里見を見ているのは………辛い。
痩せた頬。身体。不健康にしか見えない顔色。黒髪に目立つ白い髪。
昔を知っているだけに、そこに巣食う病気がありありと見えて。
「………母親が」
「………うん」
「同じ病気だった」
「………え?」
「だから一緒に居るのがどんななのか、分かる。ちょっと肌艶悪いし、今日の夏目」
肌艶って何って、里見は言って欲しかったのかもしれない。
少し茶化したような口調で、笑って、だし。
でも、母親が同じって。今。
里見のお母さん。
『ちーくん』って少しヒステリックな呼び方をしていた人。キスする僕たちを見て悲鳴をあげた人。それから里見を見張っていた人。僕たちを何度も引き離した人。
いつまでも何も言わず里見を見る僕に、里見は目を伏せて言った。
「入退院を繰り返してた」
「………いつから?」
「25ぐらいの頃に見つかって、それから」
25、ぐらい。
どきんってなって、記憶を遡った。
中学2年生で里見と別れて、再会が20歳。
その後コンスタントに会うようになって、ある日突然連絡が取れなくなったのは?
「………里見」
繋がる。
記憶と言葉。
僕は里見を呼んだ。
里見はごめんって言った。
ある日突然連絡が取れなくなった。
それは確か25ぐらいの頃だった。その1年後の同窓会でまた再会した。そのときの里見はひどく疲れた、憂いた顔をしていた。会うたびに、その憂いは濃くなっていた。
そのさらに1年後。
………里見は、結婚、した。
「………里見。おばさんは?」
声が震えた。
本当は聞きたくなかった。
でも聞きたかった。
あの頃分からず、それからもずっと分からずに居た里見が、はっきりと分かるかもしれないって。
「………俺が結婚してすぐ、死んだよ」
「………っ」
里見のお母さんが、僕たちを引き離したんだと思っていた。
20歳で再会した後も、里見の警戒の仕方は尋常じゃなかったから。見つかったらってずっと危惧していたから。そのときの対策までしていたから。
最初がそうだったから、その後もそうだと、僕は思っていた。
違うの?
2度目からの別れは、里見のお母さんがそうしていたんじゃなくて。里見が。
「………何で言わなかった?」
「言ったら別れようって、きっとお前は言うから」
「………」
「俺は、別れたくなかった。最後までずっとそう思ってた」
最後、まで。
考える。
もし、里見のお母さんが里見と同じ病気だと知っていたら。
それでも僕は里見に会いに来てと願っただろうか。
それでも僕は里見に会いに行っただろうか。
誰よりも僕たちを認めなかった里見のお母さんを知りながら。
分からない。
分からないよ。そんなの。
だって今はあの頃じゃない。あの頃の僕じゃ、ないから。
「………七星に会ってくる」
「………うん」
涙が、出た。頬を伝ってどこかに落ちた。
知らなかった。
知ってしまった。
そして。
知っている。
時間も気持ちも戻らない。
知ったところでどうにもならない。できない。
辛い。苦しい。逃げたい。
里見の命が僕にのしかかる。
七星に会いたい。会って触れたい。冷えたぬくもりではなく、熱いぬくもりに触れたい。
死の重みではなく生の重みを感じたい。
悲しみではなく喜びを。
「………ごめん」
冷たくて大きな手が、僕の頬に触れた。
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