第122話
「落ち着いた?」
そんな言葉と一緒に、ダイニングテーブルに、さっき里見がいれたコーヒーの入ったマグカップが置かれた。
そしてそのまま隣に座る。右側に。里見が。
この家に里見が来たときと、逆で同じシチュエーションに、複雑な気分になる。
「………それは僕の台詞」
「俺だろ」
「僕だよ。僕は里見につられただけ」
フラッシュバック。今と過去の混同。
言ったって仕方ないのに、どうにもならないのに、我慢と諦めの結果の置き去りの感情が、里見につられて暴走した。
説明するとそうなんだけど。
………泣きすぎで恥ずかしい。
「………ごめん」
小さく言ってから、里見はコーヒーを飲んだ。
「たかがコーヒーで大ごとになったな」
「………里見が悪いんだよ」
「それもやっぱり俺か」
「里見だよ。だって、買えばいいんだよ。欲しいなら。好きなら。我慢なんかしないで」
「使えるのがあるんだから、もったいないだろ?」
「じゃあその使えるのはリサイクルショップに持って行けばいい。欲しい人がいたらあげればいい」
「だからどうしてそこにそのまま使うっていう選択肢がないんだ?」
せっかく。
里見曰くの『大ごと』になった感情が落ち着いたのに。
同じことでまた里見が里見らしくなくなっていく。
意地、みたいな。
拗ね、みたいな。
コーヒーメーカーは、ひとつのきっかけにしか過ぎない。
コーヒーメーカーだけじゃない。他もなんだ。
里見は欲しいものを欲しいと言わない。好きなものを好きと言わない。欲しいのに、好きだから欲しいのに、欲しているのに自らは望まない。
まず先に我慢がある。我慢する。機会がないならそのまま諦める。自分から機会を求めるのではなく、相手から機会を与えられてそれでやっと、そこでやっと、初めて口にする。
「欲しいものを、好きなものを手に入れた方がいいからだよ」
「コーヒーメーカーに関して言えば、どれを使おうと味は同じだろ?」
「違うよ」
「同じだ」
「じゃあ里見、そのコーヒーと家で飲むコーヒー、どっちが美味しいと思う?」
また一口飲もうと、里見はマグカップを口元に持っていっていた。
飲もうとしたタイミングでの僕の言葉に、里見の動きが止まった。
「飲んで教えてよ。どっちが美味しいのか」
止まっていた里見が、小さく息を吐いて、仕方なさそうに一口飲んだ。
そのコーヒーは、絶対気に入っただろうコーヒーメーカーで、里見が楽しそうにいれたコーヒー。
そのコーヒーが入っているのは、おそらく里見が好きだろう、和の、織部焼きのマグカップ。
そしてここは里見が望んだ一軒家。望んだ通りの一軒家。
すぐ横に………僕。
それでも家で飲むコーヒーと同じだなんて。
言えるわけがない。そんなの、聞く前から分かりきっている。
飲んで、里見は笑った。
吐く息と一緒に笑った。
ことん。
マグカップを、置いた。
「………ごめん」
「ごめんじゃなくて、どっち?」
「………こっちだ、な」
伝わっただろうか。
少しは何か。里見に何か。
僕が言いたいこと。伝えたいこと。
「明日買いに行こう」
「え?」
「僕が買ってあげるよ。コーヒーメーカー。買って家に送ればいい。僕からのプレゼントって言ったら、使わざるをえないでしょ?」
「夏目」
「帰ったら奥さんにいれてあげて。一緒に飲んで。美味しいねって、ケーキでも食べながら」
「………夏目、何で泣く?」
言われて気づいた。
また涙が溢れていた。
その涙が、里見の大きな、冷たい手で拭われた。
「………そうやって、そうやって今からでも欲しいと好きを集めて、お前はそれに囲まれて」
これからも生きるんだ。
「………っ」
諦めた、夢見た夢のような今日は、悔いなく逝くためにあるんじゃない。
悔いなく逝くために、やり残した願いを叶えているんじゃない。
僕たちふたりを、僕たちふたりで昇華して。
今を。
過去ではなく今をきちんと見るためだ。今をきちんと生きるためだ。
お願い里見。
僕にもう、後悔を残さないで。
後悔を遺して逝ってしまわないで。
里見が今を見てくれなければ。僕はまたこれからも。まだ、これからも。
里見は答えず、コーヒーを、飲んだ。
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