第92話
居間に戻って、夜空観察記録の続きを見た。
中学1年生からの分を。
六年生までと変わらなかった。最初は。変わらなくて、1枚、また1枚とふたりでめくった。
クラスが分かれたんだよね。里見はバスケ始めたんだよね。
夏目は美術部だったな。
お前のせいだよ。僕が美術部なんて。
俺?
だって、お前ずっと言ってたじゃん。夏目の絵はいい。うまいって。
それで美術部?
そうだよ。じゃなきゃ入ってない。
じゃあ、もし俺が言ってなかったら。
絵本を描いてる僕は存在してないよ。
里見がソファーの右隣で、まじまじと僕を見下ろした。
何?って、ファイルを脚の上に置いて、見上げる。
「あの頃の俺を褒めてやりたいな」
「さっき逆のこと言ってなかった?」
「カレーの
「その口だよ。美術部の件は?」
「褒めてやる」
笑う。なにそれって。
ずっと、里見と仲良くなってから、一緒に居るようになってから、ずっとこんな感じだった。
誰にも言わず、言えずにいた左耳が聞こえないことを、里見になら言ってもいいと思えるぐらい、里見は。里見とは。
気が合うんだ。やっぱり。
「それは里見も迷惑だと思うよ」
「だな」
そしてまた紙をめくる。
別のクラス、別の部活で、一緒じゃない時間が増えた。
でも、一緒に居る時間を確保した。
続けた星の観察。
土曜日も日曜日も祝日も。
夏休み、も。
夏休み。
初めて里見と僕はキスをした。
里見からキスをされた。
僕はそれを観察記録に書いていた。
もし誰かに見られても、分からないように。
日付と時間の横。
その日だけ僕は、そこに星マークを描いた。
初めてキスをした日だけ。
次の日僕の観察記録を見た里見は気づいた。
何で星?って聞いて、すぐにあって言った。
気づかれたことが恥ずかしくて、僕は答えなかった。
里見もそれ以上何も言わなかった。
でも。
里見の観察記録用紙の日付と時間の横。
里見はそこに、同じように星マークを描いた。
僕たちに、想いを通わせ合った、付き合い始めたというはっきりした日はない。
気持ちは何も言わず、キスからのスタートだった。
一度別れて、離れて、再会してからも、キスと身体からのリスタートだった。
だから、その日が。初めてキスをした日が、僕たちのスタートと言えば、そうなのかもしれない。
出てきた星マークのある日の記録。
それを見ている里見。
それを見ている僕。
しばらくそのページから、進むことができなかった。
中学1年生の分が終わって、中学2年生のファイルにうつった。
中学2年生。
僕たちはまた同じクラスになって、そして。
そして。
「久保くんの仕事、何時に終わる?」
「え?」
『あの日』の記録が近づくにつれて、僕たちは無言になっていった。
そこに突然の里見の言葉。
思考が全部中学時代に持っていかれていたのもあって、『久保くん』と『七星』がすぐに結びつかなかった。
「ああ、七星?」
「会うんだろ?夜。俺も荷物取りに行かないと」
「うん」
あと少しで『あの日』になるこのタイミングに意味はあるのか。たまたまなのか。
「定時はあってないようなものだよ。いつもバラバラ。だいたい7時半前後かな」
「じゃあそれまでにカレー食べ終わらないとだな」
「そうだね」
「………続きは夜か明日見よう」
トイレ借りるって、里見は僕の方を見ることなく立ち上がった。
敢えて今は見ないのか。
見たくない、のか。
居間を出て行く細く小さくなった里見の背中を、僕は黙って見ていた。
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