第91話

 仕事部屋には机と、描くために必要なものを置いてある引き出しや、天球儀が乗る資料の棚、そして椅子をひとつ置いてあった。

 

 

 資料を見始めてその場で考え込んでしゃがみ込んで足が痺れるなんてことを繰り返していて、それならここにひとつ椅子を置けばいいんじゃないかって、ものすごく初歩的なことを思いついて買ったもの。

 

 

 それに里見を好きな位置に動かしていいよって言って、僕は引き出しからスケッチブックを出して机に向かった。

 

 

 里見は置いてあった位置が気に入らなかったらしく、椅子を持って移動している。どこがいいか机の位置と部屋を交互に見ながら。

 

 

 

 

 

「ぴょんとまるでいいの?」

「いいよ。俺あの絵本好き」

「どんな風に描いてとかある?」

「どんな風に?」

「ただ並んでる絵でいいのか、こういうポーズがいいとか」

 

 

 

 

 

 僕の右。少し離れて少し斜め後ろに里見は椅子を置いた。

 

 

 

 

 

 思ったより近い。

 

 

 

 

 

 視界には入らない位置かもしれないけど、どれだけしっかり見るつもりなんだろう。ちょっと描き辛いかもしれない。

 

 

 

 

 

 そんなにも僕を見たいということだろうか。

 

 

 久しぶりなのと、目に焼き付けるということ?

 

 

 

 

 

 気にはなったけど、里見の好きにしてもらおうと、僕はペラペラとスケッチブックを何も描いていないところまで捲った。

 

 

 気分転換のために広げるこのスケッチブックの最近のページには、笑えるぐらい豆太でいっぱいだった。

 

 

 

 

 

「………手」

「手?」

「ぴょんとまるが手を繋いでるところ」

 

 

 

 

 

 辿り着いた白紙のページ。

 

 

 里見の言葉。

 

 

 

 

 

 僕はペン立てから鉛筆を取って、分かったってすぐに描き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 里見は無言だった。

 

 

 だから僕はすぐに描くことに集中して、里見が見ていることも忘れるぐらい描くことに没頭した。

 

 

 

 

 

 絵を描き始めたのは、里見が大袈裟なぐらいに褒めてくれたから。

 

 

 絵を続けられたのは、里見が僕の絵を好きだと言ってくれたから。

 

 

 その言葉に縋りついて、縛られて、絵以外に目を向けることができなかったから。

 

 

 

 

 

 里見が居なかったら僕は、この僕は、ぴょんとまるを描く僕は存在しなかった。

 

 

 

 

 

 それはいいのか、悪いのか。

 

 

 

 

 

 ぴょんを描いた。

 

 

 月から落ちて、自慢の耳の左側が折れたうさぎのぴょん。

 

 

 落ちた場所で、初めてできた友だちのまる。

 

 

 

 

 

 なかないで。ボクがいるよ。そばにいるよ。ぴょんがかなしくないように。

 

 

 うそだ。だってまるはかえっちゃう。いつもぼくをおいておうちにかえっちゃう。

 

 

 

 

 

 けんかをしたぴょんとまる。

 

 

 ぴょんは、まあるいるきのつきあかりのした、ぴょんぴょんとんでなきました。

 

 

 まるはうそつきだ。まるはうそつきだ。

 

 

 ぼくもかえりたい。ひとりぼっちはさみしいよ。おうちにかえりたい。

 

 

 

 

 

「………夏目?」

 

 

 

 

 

 描く手がいつも間にか止まっていて、里見の僕を呼ぶ声にびくってなった。

 

 

 

 

 

「………まるはうそつきだ」

「………」

 

 

 

 

 

 言って、描く。

 

 

 続きを描く。

 

 

 繋いだ手。繋いでいる手。

 

 

 

 

 

 まるはぴょんの折れた左耳が好きだから、いつもぴょんの左に居る。

 

 

 だからぴょんの左手と、まるの右手。

 

 

 

 

 

 繋いで。繋げて。

 

 

 

 

 

「まるは優しくて、ぴょんだけを選ぶことができない」

「………うん」

「だからぴょんは、泣き止まない。いつまでも空を見上げて泣くんだ」

「………うん」

 

 

 

 

 

 ごめんって、小さく小さく、聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 描いた絵は、色鉛筆で色をつけて完成にした。

 

 

 見せて、本当に要る?って聞いたら、欲しいって言われて、スケッチブックから破ってはいって渡した。

 

 

 

 

 

「お前のこういうところ、好きだよ」

「こういうところって?」

「俺にだけ雑なところ」

「別に雑じゃ………。雑か。ごめん」

 

 

 

 

 

 一番最初、七星と理奈ちゃんに渡したぴょんとまるは、色紙に描いた。

 

 

 その後お年玉がわりに理奈ちゃんに渡したぴょんは画用紙に描いた。しかも額に入れた。

 

 

 

 

 

「ごめん。もっとちゃんと描くよ」

「いいよ。お前のこういうの持ってるのって、絶対俺だけだと思うから」

「………ごめん」

「昔からだから、慣れてる」

「そんなことないよ」

「知ってる?喋り方も俺のときと他のやつのときでちょっと違うって」

「違わないよ」

「俺には夏目、お前って言うんだ。他のやつには絶対言わないのに」

 

 

 

 

 

 右斜め後ろ。

 

 

 

 

 

 里見は渡したぴょんとまるの絵を大事そうに両手で持って、眺めながらそう言った。

 

 

 

 

 

『お前』。

 

 

 

 

 

 確かに、言う。里見には言う。

 

 

 他の誰にも、七星にも言わないのに。里見には。里見だけには。

 

 

 

 

 

「俺だけの立ち位置って、ちょっと優越感だった。ずっと」

「………」

 

 

 

 

 

 里見は、僕にできた初めての、仲のいい友だち。

 

 

 里見は、僕にできた初めての、コイビト。

 

 

 

 

 

「………うん。そこは、里見だけの立ち位置だね」

「だろ?」

「………うん」

「里見へって書いて。夏目より、も」

 

 

 

 

 

 戻されたスケッチブックの紙に、言われた通り里見へって、書いた。言われた通り、夏目よりって。

 

 

 

 

 

 里見はいつだって、今だって、僕にとって………。

 

 

 

 

 

 渡した紙に、里見は笑った。

 

 

 ありがとって、笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る