第76話
「どうして逃げたりしたんだろうって」
「………」
「好きなのは夏目なのに、ずっと好きだったのに、変わらず好きなのに、どうして俺は………」
里見がぴょんとまるの人形を元の場所に置いて、俯いた。拳を握った。
まだそんな年でもないはずなのに、明らかに目立つ黒髪の中の白髪。そして痩せた身体。
「反対されていなかったら、結婚していなかったら、夏目を選んでいたら今ごろどうなっていたんだろう。病気を告知されたときから、ずっと思ってる」
それを聞いて。
聞きたい。誰かに。七星に。
それを聞いて、人は何て思うことが、何て答えるのが人として正解なの?教えて欲しい。もしも正解があるというなら。
僕もぎゅっと、拳を握った。
里見から顔を背けた。
昨日泣いて、七星に抱き締めてもらって少しすっきりしたはずの心がまた、吹き荒れる。嵐になる。
ふざけるな。
そう思う、そう言いたい、僕がいる。
そんな僕はやっぱりおかしいのか。
お前がそうしたくせに。お前が自分で。
じゃあ病気にならなかったらどうだったんだよ。病気になったからそこまで後悔してるんじゃないのかよ。病気にならなかったら。
あ。
病気に、ならなかったら。
病気に、なったから。
病気になって、まで。
色んな感情で吹き荒れた僕の内側が、一瞬で止まった。
小さくなった里見。
目に見えて分かる病魔。
お前は、責めてる。自分を。多分ずっと責めてきた。
いつからかは分からない。もしかしたら初めてキスをしたときからなのかもしれない。もしかしたらそれよりももっと前からかもしれない。
ずっとずっと責めて。自分を責めて。
何をって、僕とのこと。そもそも恋愛の対象が僕で………男であることを。
否定しても否定してもそうで、それでも踏みとどまっていた一線をキスで完全にこえて、そこに、悲鳴。
あの日、僕たちの有罪は確定した。
里見にとっては、あれは死刑判決だったのかもしれない。
だから、病気を使うほどに。
命を使うほどに。
病気を使ってまで。
命を使ってまで。
許してくれ、と。
「………ふざけるな」
「………」
「全部お前がやったことだ。最初から全部お前が」
「………ごめん」
「自分だけがツラかった、自分だけがツライみたいな顔しやがって。僕がどんな思いをしてきたか。僕だってずっと………ずっと………‼︎
「………ごめん」
「何してるんだよ」
「………ごめん」
「何してるんだよ‼︎早く僕を抱き締めろよ‼︎それをしに来たんだろ⁉︎」
悲しい。
悲しい。
僕は悲しい。
悲しかった。
ずっとずっと。
どうして好きじゃいけないの。
どうして隠していなきゃいけないの。
どうして離れなくちゃいけないの。
どうして。
どうして里見は、僕を選んでくれないの。
どうして僕は、僕を選んでって言えないの。
里見が、信じられないって顔で、ゆっくりと肩越しに僕を見た。
今、僕が好きなのは七星。里見じゃない。
でも。
今、里見に触れないと。
今、里見に触れてもらわないと。
里見の病気どうこうを抜きにしても、これが最後。
僕と里見の人生が交わるのは、これで。土曜日までで最後。
涙が溢れた。
里見の前ではずっと我慢していた涙がどんどんどんどん溢れた。
人は悲しみで、一体どれだけの涙を流すことができるの。
ぎこちなく里見が身体ごとこっちを向いた。
ぎこちなく僕の方に来て。
ぎこちなく手を伸ばす。
冷たい指先が、僕の頬に触れた。
知らない。
こんな冷たい手は知らない。記憶の中の里見はもっと熱い手をしていた。
許して。
お願い、許して。
誰に乞うているのか分からず、それでも乞うた。
里見が僕を好きなこと。
僕が里見を好きだったこと。
それをお願い。
罪にしないで。
頬に触れた手が、そのまま後ろに滑って、僕は里見に抱き締められた。
においが、違う。
里見からする里見のにおいが、あの頃の里見じゃなくなっている。
「………夏目だ」
「………」
「夏目だ。夏目が、居る」
小さく震える声。荒い呼吸。
「………会いたかった、夏目。………会ってこうしたかった」
僕はそっと里見の背中に手を添えて、里見に抱き締められながら。
里見と一緒に、泣いた。
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