第75話
着いたよって車を車庫にとめておりた。
里見もおりてきて、その里見の顔が。
呆然。
家を、坂の下を、そしてまた家を見て。
くしゃって、顔を歪ませた。
それは、自分が言ったことを、僕に言ったことを、覚えている証拠。
報われる僕が、胸の奥に居た。
「………いつから、ここに?」
「里見が結婚した後」
「………っ」
里見の目から、涙が溢れた。
里見はすぐに右腕で、肘の辺りで顔を覆った。ごめんって、言った。
ごめん。ごめん、夏目。本当にごめん。夏目………ごめんな。
泣きながら、里見は謝った。謝ってくれた。そして。
ありがとう。
震える里見の声に堪えきれず、僕の涙も落ちた。
「入ろう」
顔を覆ったまま動かない里見の冷たい左手を取って、里見を家の中に連れて行った。
僕に手を引かれて、引かれるまま家に上がって、泣きながら、嗚咽を堪えるために右肘で口元を押さえながら、里見は必死に家の中に視線を巡らせていた。
見なくてはいけないものを必死に見ているようだった。
里見の手を引きながらコーヒー飲める?って、台所のサイフォン式のコーヒーメーカーを指差した。
その隣には、手動のミル。
里見は少しの間それを見て、そしてコクコクと頷いて、また泣いた。
居間のソファーに里見を座らせて、ティッシュを箱ごと渡して、僕は台所でコーヒーの準備をした。
聞こえる小さな嗚咽に、コーヒーをいれながら、僕も泣いた。
「落ち着いた?」
「………ごめん」
マグカップをソファーの前のローテーブルに置いて、僕はラグに座った。
マグカップは、この家に来てすぐに買ったもの。
里見って意外と和物が好きだよなって選んだ織部焼きの。
ずっと使っていて、最近新しく七星と買ったから処分しようってしまったものを、また出した。
「………ごめん。ごめんとありがとうしか言葉が出てこない」
「………うん」
いただきますって里見はコーヒーを一口飲んで、うまいってまた、泣いた。
それから無言のままコーヒーを飲んで、飲み終わった里見がもっと家の中を見せて欲しいって言った。
朝まで七星が居た。
出勤するまで居た。
その後、分かりやすく七星のものは寝室に片付けた。
寝室には入らないで。
そこは七星と僕の場所。
言おうとして、やめた。
「いいよ」
ここは、この家は、里見と住むことを夢見て買った家。
でも今は、七星と住むことを待つ家。七星と僕の家。
それを里見。
見ればいい。それが『今』なんだってことを。
「好きに見ていいよ」
「………ありがとう」
ゆっくりと立ち上がる里見を、僕は座ったまま見ていた。
まずは居間を、里見はぐるりと見渡した。
それから台所へ。
すぐにコーヒーメーカーの方に行くのが見えた。
ここからだと背中しか見えないけど、触っているのか、じっとしている。
そしてまた辺りを見渡して、ふらふらと台所を出て行った。
あと1階にあるのは僕の仕事部屋。
前に住んでいた人が何度か改築をしたって聞いている。そのときに二部屋を1つにしたのか、仕事部屋は広い。そして1階の部屋はそれだけで、あとは2階。寝室がある、2階。
そういえば里見は、僕が絵を、絵本を描いていることを知っているのだろうか。
ふと気になって、僕は里見を追いかけて、仕事部屋に行った。
里見は、机の上に置いてあった耳折れうさぎのぴょんとまるの人形を持って眺めていた。
僕に気づくと、これ知ってるって。
「………知ってるんだ」
「………娘が、居て」
「………」
娘。
里見は結婚している。
里見の気持ちはどうであれ、結婚しているのだから、子どもが居てもおかしくはない。普通のこと。
なのに。胸が。
痛んだ。
痛い。
せっかく里見の涙とごめんとありがとうで少し報われた心がまた。
「………言い訳にしか聞こえないだろうけど、ヤってない、よ」
「………どういうこと?」
「不妊治療をしてできた子どもだから。俺は………女の人相手にはできない。勃ったことがない」
「………それ、分かってて、結婚したの?」
「分かってて結婚したよ。俺も………奥さんも。さすがに男相手なら勃つまでは知らないと思いたいけど。男として機能しないって、認識で」
僕は僕で、ツラかった。悲しかった。何でって。
でも、里見も。
どういう経緯で知り合って結婚したのか分からないけど、でも、奥さんも。
ずっと、ずっと。
「本屋でこの絵本見つけて、びっくりした。絵だけですぐ夏目だって分かった。逆に名前見た方が全然ピンと来なかった。ひらがなだったから。俺の中でお前はずっと『夏目』だから」
夏目。
どんなに深い仲になっても、里見は僕をそう呼んで、僕もずっと里見。
「本屋でそのまま読んで、泣いた」
「………え?」
「これは夏目だって。これは俺だって。俺たちの話だって」
「………」
分かって、くれていた。
僕の絵本を知っていてくれていただけじゃなくて、このふたりが、ぴょんとまるが僕と里見だということも。
また、涙が溢れた。
僕は里見の後ろで泣いていた。
「全部持ってる。全部買った。全部2冊ずつある」
「………どう、して?」
「娘用と俺用」
大事に。
されていた。
現実でそれができなかっただけで、知らないところで、見えないところで、里見の胸の中で、僕は。
「これもうちにあるよ。この人形。同じやつ」
「ふたつずつ?」
「………そう。ふたつずつ」
お互いの声が、震えていた。
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