中学時代の〝大掃除〟の思い出

トファナ水

中学時代の〝大掃除〟の思い出

 僕の育った家は、東三河の山に囲まれた丘陵地にある古びた神社だった。戦前、この辺りにあった集落の氏神だという。

 この集落は満州に集団移住して廃村となったのだが、住民は終戦時に移住先で集団自決してしまう。出征していて現地にいなかった唯一の生き残りが帰国後、村民の名義のままだった辺り一帯の土地を相続した。

 この一帯は貴重な植物の自生地という事で、地権者の他は、立ち入りが厳しく規制されていた。

 僕の父は、この地権者が創業した医薬品メーカーのフェロー(役員待遇研究員)なのだが、土地の管理を任され、管理人を兼ねてここに住み始めた。専門は植物由来の生薬という事で、管理人として白羽の矢が立ったらしい。

 引き受けるに際して、一応、出雲大社で研修を受けて神職の資格を取ったそうだが、神主らしい事をしたのをみた事がない。父の日常は、辺り一帯の植物に関する記録や、家の近隣のビニールハウスや畑で薬草を栽培したり、資料を作成するという毎日だった。

 母はペルシャ語の翻訳家で、イランやアフガニスタンの書物の日本語訳が仕事である。祖父が商社の駐在員だったそうで、イラン革命まで一家で現地に住んでおり、言葉も覚えたという。

 近代化に熱心だった旧王朝を支持していた祖父は、革命の横暴に対して義憤にかられ、職を辞して、国外脱出をはかる旧政権関係者を支援する活動に身を投じたが、祖母ともども、滞在先の米国で自動車事故に遭い死んだ。

 母は、二人は革命政権に暗殺されたと信じている。父とは、定期検診の為、病院に行った折りに知り合ったという。

 思い出深い神社なのだが、僕はもう長い事、ここを訪れていない。とある理由で、そこを訪れてはいけないのだ……



 僕の通っていた中学校は、山を一つ隔てたところにある集合住宅に隣接していた。この集合住宅は、高度成長期の末期に立てられた低所得者向け住宅で、地価が安いという事と、過疎対策を兼ねて、この様な田舎に作られた。

 住人は主に、地域の工場や港湾で働く臨時労働者とその家族で、毎朝、各々の職場の用意する通勤バスで、一時間近く掛けて通勤していた。自動車なんて贅沢な物を持っている人は殆どいない。

 家賃は安い物の、建物は古びており住環境は悪く、正社員として就職がかなったり、貯金が出来たりした人は、もっと職場に近く快適なところに転居して行く。結果、集合住宅は、取り残されたモラルの低い人たちの吹きだまり、平たく言えばスラムの様な状態だった。

 僕の家は、以前は校区から外れていたのだが、学校の統廃合の関係でそこに通う事になってしまったのである。



 住人の質の通り、学校の環境もまた最悪だった。殴る・蹴るの暴力は日常茶飯事で、”余所者”の僕は真っ先に標的にされた。

 両親や学校に幾度となく訴えたが、「まず、自分に悪いところがないか反省しなさい」と言われ、有効な手だてを取ってはくれない。僕には理不尽に思えてならなかった。

 月日が経つうちに、徐々に行為はエスカレートして行く。ナイフを突きつけられて「殺すぞ」と言われる事すら珍しくなくなった。

 たまりかねて、集合住宅の地域を管轄する駐在所に訴え出たが、まず親や学校に言えと言われ、門前払いされてしまった。 〝何度も親や学校に言ったが、あてにならないからここに来た〟と言っても、駐在は耳を貸さなかった。

 駐在に訴えた翌日、その事が知れ渡り、暴力は熾烈を極めた。僕に暴力を振るう一党の一人が、実は駐在の息子で、そこから話が伝わったらしい。僕が被害を訴えた事が、駐在一家の夕食の話題にされたそうだ。

 その日は体中がアザだらけになり、体が食事を受け付けなかった。両親に〝これ以上学校に通えば、命の危険すらある〟と訴えたが、大袈裟だと軽く流された。

 僕がさらに訴えると、父は真剣な表情で「どんなに社会が酷くても、自分から世を棄ててはいけない」と諭してきた。

 父の目を見ると、それ以上何も言う事が出来なかった。



 その夜。

 自分なりに考えた結果、父の言葉を「戦え」という意味に解釈し、機会を伺う事にした。

 幸いにして、金銭については不自由していなかったので、昼食のパンなどを連中に言われるままに買い与えるなどして機嫌を取り、まずは安全の確保につとめた。そのかいがあり、時々気まぐれで殴られはする物の、危険の程度は多少下がった。

 ある日、連中から、校舎の裏に呼び出された。

 僕の父が製薬会社の社員である事を知った連中は、それを利用して麻薬を手に入れろと要求して来たのである。彼等にしてみれば、単に無理難題をふっかけ、断った事を理由に暴力を振るう気だったのだろう。

 だから、僕が「半月くれれば入手する」と答えた時は意外そうな顔をしていた。だが、僕が冗談を言わない事を連中は熟知していたので、半月待って嘘ならリンチにかけるという事で、ひとまずは時間を与えられた。

 僕には、あてがあった。

 麻薬に関する特集番組で、原料としてTV画面に映っていた「ケシ」という花が、僕の家がある丘陵地帯に昔から多く咲く花とそっくりだったのである。

 ケシの実から取れる樹液を集めれば「阿片」という低質な麻薬になり、さらに精製すれば「ヘロイン」という遙かに強力な物になる。

 阿片でも連中は満足するだろうが、僕は、連中の機嫌を取る為に渡すのではなく、もっと効果的にこの機会を使おうと考えていた。

 その為には、強力なヘロインの方が良い。連中を中毒にすれば、逆にこちらの思うがままである。丁度、父は、海外の民間薬の調査の為、旅行がてら母を伴って中近東に長期出張中だった。精製は自宅で出来そうである。

 製法の詳細を知る為、父の蔵書に何か参考になる物はないか探すと、麻薬の密造手段に関する資料があった。元々は警察関係者向けの資料らしい。

 必要な薬品や器具類は、学校の理科室から失敬することにした。施錠もろくにされていない学校である。夜間忍び込んで、目的物を手に入れるのは容易だった。

 ヘロインの密造だけでかなりの重罪なのだが、この時、僕はまだ十二歳だった。少年法の規定で刑事処分は受けない。僕は発覚した時に備え、ポケットにICレコーダーを隠して、ヘロイン密造は連中に強要されたという証拠として、会話を録音する事にした。

 連中は僕の思い通りに「期限までにヤクもってこいよ」「持ってこなかったらリンチな」等と話しかけて来た。僕の方は「**君」と相手の名前を会話に極力入れる様にし、誰との会話かわかる様に心がけた。

 また精製に先立って、一一〇番に、麻薬をもって来いと同級生に脅されている旨、電話を入れた。駐在は連中の身内であり、あてにはできない。

 いたずら扱いされて相手にされなかったが、それも想定内で、やはり録音を取っておいて、通報はしたという証拠とする為である。もちろん、この時点で警察が介入してくれればそれに超した事はなかったのだが、無駄な期待であった。



 精製は出来た。次は吸引方法である。注射器を使うのは難しいし、連中も尻込みするだろう。参考にした資料には、火にあぶって吸引する手法が解説してあったので、フライパンであぶって煙をストローで吸わせる事にした。

 そこまで決めた時、新たなアイデアが浮かび、物置きから、七輪と練炭を持って来た。これを使えば、一気にケリがつく。



 翌日、麻薬が調達出来た事を連中に伝え、その日の夜に集まる事になった。連中がたまり場にしているのは、そのメンバーの一人が住んでいる部屋だ。父子家庭で、父親は長距離トラックの運転手をしており留守がちである。

 集まった連中にヘロインを示すと、「さすが!」「やるときゃやるな!」と歓声が挙がった。

 僕は吸飲方法を説明した。皆で七輪を囲み、フライパンをかけてヘロインをあぶり、煙をストローで吸う。

 夏場なのに暑いという不満の声があがったが、クーラーを強く掛ければ問題ないという事で落ち着き、こちらの思惑通りとなった。

 カセットコンロや焼き肉用のヒートプレートを七輪の代わりに持ち出されたら、計画が狂ってしまうところだったが、幸い、その様な事を言い出す者はいなかった。

 準備が出来たところで、僕は部屋の外で見張り役をする事を申し出た。連中は脳天気にも「悪いな!」「次は代わってやるから勘弁な!」等と声を掛けて来た。

 連中に次などないのに。

 しばらくはにぎやかな声があがっていたが、やがて聞こえなくなった。一時間ほど待って、ドアをノックしたが反応がない。建物の外から、ベランダ側の窓も閉め切ったままである事を確認した後、僕は帰宅した。



 翌日、連中は登校して来なかったが、学校を無断欠席する事が多い為、特に問題にはならなかった。連中の家族も、どうせ遊び歩いているのだろうと思っていた様で、問い合わせもなかった。

 三日経ち、さすがに連中の家族の一部が騒ぎ出した。担任は僕に、連中の行方に心当たりがないか尋ねてきた。そこで僕は、連中に麻薬の調達を強要されていた事と、三日前の夜に、連中のたまり場で麻薬を渡したのが最後だと伝えた。

 担任は麻薬の件については僕を信用しなかったが、とにかく行ってみるという事で、僕を伴って、放課後に連中のたまり場を訪問する事になった。

 部屋は施錠されたままで、郵便物や新聞は郵便受けに刺さったままになっていた。担任は、どうせ留守だろうと言い、その場を立ち去った。



 翌々日。たまり場の主である、連中の一人の親から学校に電話があった。帰宅してみると、自分の息子と友人達が倒れていて、全員死んでいたというのである。

 僕は学校を経由して警察署に呼ばれた。応対した刑事は、連中が締め切った部屋で七輪を炊き、一酸化中毒で死んでいた事と、検視の結果、血液中からヘロインが検出された事を話してきた。

 こちらの期待通り、冷房の為に窓を閉め切った部屋で、ヘロインにより酩酊状態になった連中は、窓を開けて換気する事すらかなわず、そのまま死んだ様だ。刑事は僕に、知っている事を話す様に促してきた。

 僕は、父が製薬会社に勤めている事を理由に、連中から麻薬を入手する様強要された事と、父からの入手は困難なので、ヘロインを自宅近隣に生えているケシから精製した事を話した。

 さらに、以前から暴力をふるわれており、駐在にも訴えたが、駐在の息子が一員に加わっていた為に相手にされず、かえって暴力がひどくなった事や、麻薬の調達を強要された時、一一〇番に通報したがやはり相手にされなかった事も話し、予め用意しておいた録音の複製データを提出した。

 オリジナルは、事態が僕に不利になった場合、さらに外部に訴える手段として隠しておいた。

 事情聴取が終わる頃、僕とも面識がある、父の会社の顧問弁護士が警察署を訪れた。両親が海外に出張中だったので、僕が身元引受人として指名したのである。

 身元引受人が来た事で、僕はひとまず解放された。帰りの車中、僕は弁護士に謝罪したが、彼は「君の置かれた立場からすれば、合理的な判断だ。後はこちらで処理するから何も心配しなくていい」とのみ答えて来た。

 僕はそのまま帰宅する事無く、両親が帰国するまで、名古屋にある父の会社の寮に滞在する事になった。

 以後、警察からの事情聴取は全くなく、弁護士からは、僕の行為が不問にされた旨が、簡潔に伝えられてきた。



 急遽帰国した両親は、意外にも全く怒らなかった。ただ、父が一言、悲しそうに「世を棄てるなと言っただろう……」と言ったのが記憶に深く刻まれている。父が何を僕に望んでいたのか、現在に至るも、未だに解らない。

 僕は名古屋へ転校する事になった。私立中への編入なので、試験を受ける事にはなったが、さして難しくは無かった。荒れた中学とは大違いで、静かな環境で勉強が出来る様になったのは全く嬉しかった。

 生徒は互いに無関心で、学校行事もないという、徹底した上位校進学目的の学校だ。ただ、ひたすらに勉強という無機質な処がとても心地良かった。



 数日して、駐在所で警官の首つり自殺があった事が、新聞の片隅に掲載されていた。それ以外、一連の事件に関わる事は全く報道されなかった。ヘロインの件だけでなく、集団死その物が報道されなかったのである。

 恐らく、父の職場が懇意の有力国会議員を通じて圧力を掛けたであろう事と、連中の一員に駐在の息子がいた事、警察が僕の通報を無視した事が重く見られ、事件は隠蔽される事となったのだろう。

 非行中学生の集団死に関する真実は、僕の胸の内にのみある。


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