第88話 ティッティーの脱出


       ◆


 深夜になりロンダス塔の中が静まり返ると、ティッティーは寝台からむくりと起き上がった。

そして音を立てないように、靴も履かずにトイレへ向かう。

トイレの便座に上り、天井裏から脱出用の道具の入った箱を取り出すためだ。

こちらの隠し場所はマルコが苦心して作ったものであり、脱出セットもマルコが買い入れて、ここに運び込んだものだった。


 箱の中から催眠効果のあるお香を取り出したティッティーは、それを扉の近くで焚いた。

たちまち甘い煙が部屋中に広がり、鍵穴や扉の隙間から通路の方へと漏れ出していく。

その様子を確認してからティッティーはトイレへと引き返した。


 その場で服を脱ぎ、脱いだ服は箱のあった天井裏に押し込んだ。

ブラジャーも構わずに取り去って美しい肌を露出させていく。

それから大きく息をはいて、胸にさらしを巻きだした。

これから男装をするのだから大きな胸は邪魔以外の何物でもない。

これまで数々の男を魅了してきた胸だったが、今はその大きさがティッティーにとっては悩みの種だった。


 苦労してさらしを撒き終わるとティッティーは出来栄えを確認した。

潰れた胸はまだ大きく盛り上がっていたが、厚手のジャケットを着てしまえば目立つほどではなさそうだ。


 パンティーも男物に替えようとしたが、ティッティーは不意にその手を止めた。

今身に着けているのはシルク製で黒いレースをあしらった高級品だ。

質素な生活を強いられてはいたものの、以前に使っていたドレスや下着までは取り上げられてはいない。

男装をするからといって下着まで完璧にする必要はないかと考え直す。


 それにもし今夜、マルコが迫ってきたら……。

そこまで考えてティッティーは腹が立ってきた。


「バカみたい!」


 自分がマルコに気を遣っていることが気に入らなかったのだ。

あいつを喜ばせるため? 

それとも恥ずかしくないようにしておくため? 

そもそもアイツと寝ることを前提に考えているのが最悪よ! 


 ティッティーは心の中で毒つく。

それでもパンティーはそのままで、一般庶民の男がはくズボンを身に着けた。

ウダウダと考えている時間がないことが今のティッティーにはありがたい。


 かつらをかぶり、仕上げに鼻眼鏡を装着する。

この鼻眼鏡というのはマルコが駄菓子のヤハギで買ってきたもので、丸メガネ・眉毛・口ひげ、の三つが組み合わさった変装セットだ。

本来はたわいもないパーティーグッズなのだが、今のティッティーにとっては地獄に垂れ下がる細い蜘蛛の糸である。


 すべての変装が終わると、鏡の中の自分は驚くほどに別人だった。

これなら街を歩いていても自分だとわかる者はいないだろう。

女だとバレる心配すらなさそうだった。


 息を止めてトイレを出ると、ティッティーは部屋の窓を開けた。

そうやって催眠香の煙を逃がして、今度は部屋の扉を少しだけ開けてみる。

煙は上手く通路にも流れたようで、番兵の二人が床に寝転がっていた。


 番兵の上をまたいでティッティーは部屋を出た。

そしてわき目もふらずに通路を急ぐ。

途中、夫である前国王の寝室の前を通ったが、彼女の頭に彼のことが思い浮かぶことはなかった。

もう前国王は彼女にとって眼中にない、すでに過去の人なのだ。



 闇の中でティッティーは中庭を目指していた。

正面玄関にせよ裏門にせよ固く施錠されたうえに、見張りの数が多い。

たとえ変装していたとしてもここを突破するのは不可能である。

そこで、以前から打ち合わせておいた通り、中庭の壁に面した場所へ急いだ。


 ロウソク一つ持たない身なので、辺りは非常に暗く、一歩進むのにも手探りなってしまうほどである。

それでもティッティーは壁にすがりつきながらゆっくりと歩き、ついに目当ての物を見つけることができた。

壁の外側から垂れ下がっているロープである。


 もちろんこれはマルコが塀の外から投げ入れたものだ。

握りやすいように等間隔にコブまで結んである。

ティッティーはホッと胸をなでおろした。

実のところ、最後までマルコが来てくれるかどうか、ティッティーは確信が持てないでいたのだ。


 緊縛の薔薇という特殊な香水を用いて、ティッティーはマルコを魅了した。

だが、その効果はいつまでも続くものではない。

そろそろ洗脳が切れる頃ではないかと心配していたのだ。


 本当のことを打ち明ければ、ティッティーの魅了はほとんど解けかかっていたと言っていい。

ではなぜマルコはティッティーを助けに来たのだろう? 

それは矢作祐介のせいであった。


 矢作はマルコたちのために良かれとチョコどらを渡したのだが、この駄菓子が二人の破綻する予定の関係を修復してしまっていたのだ。

そればかりではない、お互いが踏み出さなかったであろう半歩を後押しまでしている。


 本来ならマルコにティッティーを口説く勇気はなかった。

彼の性格なら彼女を助けた後はそっと身を引くはずであったのだ。

また一方でティッティーはマルコという存在を歯牙にもかけないはずだった。

塔の下男などは便利な駒であり、利用し終われば路傍ろぼうの石と同じ存在になるはずだったのだ。

だが、一つの駄菓子が、ティッティーをしてマルコという人間に興味を持たせてしまったのである。


 マルコに合図を送るために、ティッティーは二度ほどクイックイッとロープを引いてみた。

すると、向こうからもクイックイッと合図を返してくるではないか。

マルコは約束通り壁の向こう側にいるらしい。

自由はもう目前である。

ティッティーは猛然とロープにしがみつき、壁に足をかけて登り始めた。


 地上に降り立ったティッティーはマルコに抱き着いた。


「ああ、マルコ」

「ティッティー様……」


 恋愛感情などはないが、このハグは助けてくれたお礼のようなものだとティッティーは考えている。

従順なペットにご褒美を与えている、それだけのことだ。

急いでいるのだからキスは省略してもいいだろう。

うるんだ眼をしてみせながらも、頭の隅では冷静にそんなことを考えた。


 だが、演技でマルコを見つめたティッティーはドキリとした。

しばらくぶりに見るマルコは少し逞しくなったようである。

顔つきも以前よりずっとワイルドだ。

手に触れる二の腕は予想外にゴツゴツしていて、ティッティーのお腹の奥の方が少しだけジンとした。


「どうしましたか?」

「なんでもないわ」


 日夜ダンジョンに潜って魔物と戦っているのだから、マルコが精悍せいかんになるのも無理はない。

しかも人並み以上の精力さで戦っている。

それもこれもティッティーとの新生活を充実したものにするためだった。


 追手に対する不安、新たな生活への期待、自由への喜び、胸の高鳴りはどうやらそれらだけが原因ではないようだ。

よくわからないことは、あれこれ考えないのがティッティーという人間である。

彼女は頭を使うのをやめて手足を動かすのに専念することにした。


「急ぎましょう」

「こちらです」


 闇の中で二人の影が寄り添うように歩き出した。

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