human's valentine.
ひと月に一度ほどの頻度で、私の店に来るお客様がいる。絶対に普通の仕事には就いていないだろうと思うような美形で、いつも黒で統一した質のよい服を身につけている。こんなに寒い冬でもジャケット一枚で通しているらしいところを見ると、相当、お洒落にこだわりが有るのだろう。けれど、昨年末あたりから、黒いマフラーをしているのも見かけるようになった。……誰かからのプレゼント、だろうか。
ただの常連、とはもう思えない。向こうからしたら、ここはただの紅茶屋で、私はその店主に過ぎないのだろうけれど。
ちりりん、とベルが鳴って、私は期待を胸に扉を見つめる。……違った、彼じゃない。
今日はバレンタインデーだ。私はいつも彼が来店する度に日記に書いているから、その来店のタイミングをかなりの精度で予測できる。今回もそうして予測してみたら、なんと、恐らくバレンタインを含めた前後三日の間には来店するだろうという結果になった。
別の国では愛の告白という意味をチョコに込めて渡したりなどもするそうだけれど、この国では親愛の情を込めたカードを贈り合うのが通常だ。だから、いつも品物を買って楽しんでくれるお客様に、店からの感謝のカードを差し上げたとしても、何もおかしなことなどない。ただ、他のお客様にはそんなカードを渡したりはしていないだけだ。
彼が来たら、いつもお買い上げくださるアールグレイの袋に、カードを付けて渡そうと思っていた。今日来なくとも、近いうちに来てくだされば、問題はない。
大丈夫、他意があるようなメッセージは書いていない、筈だ。まあ確かに、もっと来てくださいねなんて、書きすぎな気はしたけれど、ひとつの店を経営している人間の言葉であればおかしい話ではない……だろう。
でも、うまく渡せるだろうか。
あの、黒くて深い、切れ長の瞳にちらりと見られるだけで心臓が止まりそうになるのに……自分の思いを綴ったカードを渡すなんて、私にできるだろうか。渡せたとしても、気持ち悪く思われて、もう二度といらっしゃらなかったら、どうしよう。
ちりりん、とまたベルが鳴った。彼だろうか、と思って見たら……また違った。なんだかやけに印象の薄いお客様だ。けれども、あの彼とは正反対の雰囲気を持っていて、……少し気になる。
白いシャツに空色のパンツがよく似合う青年だった。黒髪をきれいに整えた彼とは違い、ほとんど手を入れていないだろうふわふわの金髪が、優しげな顔の周りで揺れた。ぱっちりとした青い瞳が私を見て、にっこりと笑った。思わず、つられて笑ってしまう。
「こんにちは。ここの店主さんですね。いつもお世話になっています」
常連さんの顔はよく覚えているつもりだけれども、この方は……。
「あ、すみません。私は今日初めて来店したのですが、恋人がいつもここのアールグレイを買ってきてくれるんです」
「ああ、そういうことだったんですね。いえ、こちらこそいつもありがとうございます」
穏やかな風のように、体をさっと通り抜けていく声だ。耳に残ってじんじん疼く、彼の声とはまた正反対の……。
でも、なぜこのお客さまを前にすると、いちいちあの黒髪の彼が思い起こされるのだろう。
「今日は、その恋人の方は?」
こんなに穏やかな人の恋人なら、きっと似たような、穏やかで純粋な人なのだろう。そんな人たちの安らぎの時間に、私の売る紅茶が役に立てているのだなと思うと、嬉しくなる。
「ふふ。今日はバレンタインデーですから、きっと彼も私のために、ここに買いに来るでしょう。だから私もお返しに、いつもコーヒーばかりの彼に、紅茶をプレゼントしようかなと思って」
「それは素敵ですね」
何にしようかな、と選び始めたお客様が、ショーケース越しに、キャッシャーカウンターへ目を留めた。
「それは、カードですか? バレンタインの」
ビクッとした。他のお客様には気づかれないように置いておいたつもりだったのに。
「え、ええ……」
お客様は、私の動揺を包み込むように微笑んだ。
「きっと、あなたの想いは伝わります。こんなに心を込めて、メッセージを書かれたカードなんですから。だから、勇気を出して、渡してくださいね」
さっきまで、渡せるかどうか、いや渡そうかどうか迷っていた私の気持ちを、見通しているような言葉だ。それに、メッセージカードの中身も、まるで知っているかのような。
けれども不思議と、いやではなかった。その微笑みが、とても温かかったからかもしれない。小さいころ通った教会で、神父様に悩み事を相談した時のような……晴れやかな気分だ。
「はい、そうします。……ありがとうございます」
青年は嬉しそうに頷いて、そのままいくつかの茶葉を買って出て行った。なんだか不思議な人だったけれど、いい人だったな。
カードを撫でる。
「天使サマ、こんなに紅茶をありがとう。それに、愛のこもったカードも」
愛する悪魔が、私の贈った紙袋を手にして口元を綻ばせた。久々に待ち合わせしたレストランで、料理が来るのを待ちながら、私たちはバレンタインの贈り物を交換し合っている。
「こちらこそ、いつもありがとう。あのお店、雰囲気も店主さんの接客もいいね。今度から一緒に行こうか」
「ああ、それもいいな。……ん、そう言えば」
悪魔は、黒のジャケットの内ポケットから、見覚えのあるカードを取り出した。黒くシックで、上品なデザインだ。
「それ」
「あの店主からもらった。どうやら俺に気があるらしい」
そういうことをさらりと言ってしまうのが、この男の悪いところだ。
しかし、それならば。
「そうだな、さっきのはなかったことに」
「え? さっきの?」
悪魔はすかさず聞き返した。その慌てように思わず笑ってしまう。いつもは澄ましているのに、私のことになると途端に我を失うのが嬉しい。
「安心して、ラブ。紅茶屋に一緒に行く話のことさ」
「ああ、それか。しかし、なぜ?」
本気で分からないのだろう悪魔の手から、私はカードを取り上げた。
「お前には勿体ないよ、これは」
疑問符を浮かべる男の、額を指で弾く。
「……っ」
不意打ちに、男は目を丸くした。
黒いカードに込められた真心が指を温めるのを感じつつ、私はそれを男のジャケットに仕舞った。あの、純真そうな紅茶屋のお嬢さんの顔が浮かぶ。
「一緒には行けない。だからラブ、またアールグレイを買ってきてくれ」
悪魔はきょとんとしたが、「お安い御用さ」と頷いた。
人々の想いが地上を温める、冬の日が終わろうとしている。またこの日を共にできたことを祝して、私たちはグラスを打ち鳴らした。
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