muse

 その店は薄暗い路地裏にあり、外から見える店内は路地裏よりもさらに薄暗かった。人通りのほぼない歩道に面したショーウィンドウも曇ってぼやけ、古びた木の看板ががってはいるが、ところどころ朽ちていて判別できない。

 経験上、こういう店は二種類に大別できる。ひとつは、店と共に時間を忘れ、外の世界に取り残された、とりたてて興味をそそるものもない店。もうひとつは、とんでもない掘り出し物が人知れず集まる店。ただ、後者の場合、掘り出し物の代わりに違法品をつかまされる場合もあるので注意が必要だ。ことに、ここら一帯は外国人街に近い。禁制品の売買にうってつけの場所と言ってもいいかもしれない。素晴らしい品物に巡り合うのとほぼ同確率で、危険な目にも遭うかもしれない。

 しかし……。

 私は重いドアを開いた。古い建物特有のかび臭さと軋みに迎えられ、思わず顔をしかめる。骨董品が好きだと言っても、私は現代の清潔を愛する人間でもある。こういう古い空気には、まだ慣れきれない。

「ごめんください。どなたか」

 私の声は、しんとした店内に響くこともなく沈んでいった。どうやら店員は奥に引っ込んだまま出てきそうもない。

「お邪魔します……」

 店内にはほの明るい間接照明があちらこちらにあるばかりで、足元さえおぼつかない。しかし目が慣れてくると、あちらこちらにアンティークの品々が置いてあるのがわかり、胸が高鳴るのを感じた。ここはやはり、骨董品店だったのだ。

 埃を被ったオルゴールや柱時計、値打ちものなのかどうかはよく分からないが立派な石膏像などを眺めつつ、歩を進める。狭そうに思えた割には入り組んだ通路の最後の方で、それに行き当たった。暗い店内において唯一、意図的にライトアップされた一幅の絵画に、思わず足が止まる。

 宗教画だと思った。

 描かれているのは背中に白い翼を持つひとりの天使で、美しい緑の庭に佇み、静かに祈りを捧げている様子が描かれている。全身ではなくバストアップで、全体的に黄金めいた日差しがスポットライトの役割を果たし、この絵の主役がその天使であることを指し示している。

 技巧が凝らされた精緻な筆致からは画家の技術を、描かれた天使の柔らかく生き生きとした表情からは対象への愛情を感じた。金色の髪の毛に縁取られた柔らかな白い肌には温かみがあり、有名な巨匠の未発見作ではあるまいか、との思いが頭をよぎる。

「その絵に興味が?」

 突然かけられた言葉に、びくりとする。慌てて振り返ると、いつからいたのか、ひとりの男が立っていた。まだ若いだろう。同性の私から見ても整っていると感じる顔立ちだ。黒髪黒目、長身で、シャツまで黒で揃えたスーツを着ている。

 店員、だろうか。

「ええ。……有名な画家の作品ですか」

「そう思いますか」

 男はちょっと面白そうに目を細め、私の考えを聞きたげな様子だ。少し気恥ずかしくなりながらも、私は持っている知識を少しだけ披露して、この絵に注がれた技術を説明した。

 男はおとなしく聴いていたが、私の言葉が終わると静かに手を叩いた。

「なるほど。あなたには絵画についての知識が備わっておいでのようだ。まあ確かに、フェルメールも面白い人間でしたが……」

 まるで会ったことでもあるかのような口ぶりだ。

「しかし、この絵はまったく無名の男の手によるものですよ。画家ですらない」

「画家によるものではない……? この絵が……?」

 再び、しげしげと絵を見つめる。光と陰の天才的なバランス、繊細な筆遣いによる躍動感。これがプロの仕事でないならば、世の中にはとんだ才能が眠っているものだ。

「一体どんな人間が……」

 私の呟きに、男はふふっと笑いを漏らした。

「失礼。それを描いたのは、人間でもないのでね」

「人間でもない……」

 復唱してから、ようやく気がついた。そうか、画家でもない、人間でもない者の手による絵ということは。

「AIですか」

 私の言葉に、男は切長の目を見開いた。とても意外だったのか、今度は遠慮もなしに、くっくと笑い出した。

「確かに、昨今の技術では、こういった絵画も機械が描いてしまうこともありますが……なるほど。あなたは古い物を愛好しつつも、最新のテクノロジーにも興味をお持ちのようだ。実に教養深い」

 私より二十ほども若そうな男なのに、言葉の端々から、年長者のような威厳を感じる。不思議な思いに囚われながら、私は「では」と再び尋ねた。

「では、これを描いたのは……?」

 男は私から目を逸らし、描かれた天使を見つめた。

「これを描いたのは、この天使を愛する男です」

「天使を……?」

「ええ。変わり者でしてね。男にとって、この天使は……画家風に言うなら『ミューズ』なんですよ」

 天使が実在するなどとは、さすがの私も思いはしない。恐らく天使のモデルとなった人物がいるのだろう。

 ふと、この絵を描いたのは、目前のこの男なのではないかという考えが浮かんだ。絵に、いや、描かれた天使に向けられる眼差しは、ひとりの愛好家のものというには、あまりに……。

「しかし、この絵は売り物ではないのでね。申し訳ないが……」

「ああ、いや」

 私は首を振って、その気はないことを示した。

「私の専門は美術ではないから、売り物でない作品まで欲しがるような真似はしませんよ。しかし、本当にいい絵だ。モデルへの、執着と言ってもいいほどの愛情が窺える……。これ以外に買える彼の作品があれば、ぜひ欲しいところです」

 男は少し考えるような素振りを見せた。

「ふん……。その男とは親交がありますから、今度、聴いておきましょう。またひと月後にはいらっしゃるでしょう?」

 私のスケジュールを把握しているかのような口ぶりだ。たしかに、ここらにはひと月後にもう一度来る用事があった。たじろぎながら頷くと、男は先に立って歩き出した。店の入口の方へ。

「本当は、これからここで始まる盗品売買に加担していただくつもりだったんですが……あなたは絵画を見る目をお持ちのようなので、惜しくなりました」

「は?」

 入口の扉を開いた男の言葉に、今度は私が目を丸くする。男は初めて、何のてらいもなく、にこりと笑った。

「さ、俺の気が変わらないうちにお帰りください」


 骨董愛好家が振り返りながら立ち去ってゆくのを見送って、俺は店の扉を閉めた。あの絵の前に椅子を出現させ、腰掛ける。輝く美しさを湛えた微笑みに視線を向ける。

 愛する天使を空想の庭に憩わせてみたくなったのが、この絵を描いたきっかけだ。実際にはこんな光景は見たことがない。もちろん天使サマに頼んでセッティングすることは可能だが、恐らくそんなことになったら自分の意識は保たないだろう。その聖性によってではなく、それを目の当たりにする幸福によって。

 だから、描いた。頭の中の美しい光景を、美しい天使を。

「執着と言ってもいい愛情、か」

 あの男、人間にしては、よく本質を捉えていた。目に映るものだけではなく、絵の具と共に塗り込まれた視線の意味までを、しっかり理解していた。事前のリサーチではそういう審美眼を把握していなかったから、話の意外さも手伝って、気が変わってしまったのだが。まあ、いい。悪事への加担役など、代わりはいくらでもいる。

 だが、ものの値打ちが分かる人間は多くない。

 俺は少しだけ、ひと月後が楽しみな気がした。

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