黒い刃

 ひと月に一度ほどの頻度で、私の店に来るお客様がいる。いつも黒い服でびしっと決めていて、モデルか俳優かと思うような美形で、脚が長くてスタイルもいい。来店を告げるベルの音さえ、彼の来訪時には他と比べて二割ほど美しく聞こえる。

 切長の黒目が、カウンターに立つ私にちらと向けられ、すぐに逸らされる。ショーケースの中を確認し、いつも同じ茶葉を注文する。

「アールグレイを」

「かしこまりました」

 いつも、ただそれだけのやりとり。それだけの言葉しか掛けられていないのに、その低く甘い声音は、ひと月間、耳に残る。この声で耳元で囁かれたら、失神してしまうかもしれない。

 そんなことを思っていたものだから、偶然、店の外で彼を見かけたときは、どきっとした。大通りから少し内に逸れた、ひとけのない路地裏。やっぱり黒一色で統一した服装の彼は、ガラの悪い男たちに囲まれている。

 厄介ごとに巻き込まれているのかと思った。

 慌てて警察に電話をかけようとしたところをチンピラに見つかって捕まってしまい、声も出せずに震えている私の耳に、聞こえてきたのはあの甘い声だった。

「おや。誰かと思えば、紅茶屋のお嬢さんじゃないか」

 彼は整った顔を愉快そうに『歪めて』、私を見下ろした。周りの男たちが彼を咎めようともしないので、ようやく分かった。

 彼は厄介ごとに巻き込まれていたのではない。彼自身が、厄介ごとの中心にいたのだ。

「あ……う……」

 私の声を失わせたのは、誰も通りがからないような場所で得体の知れない男たちに捕まった恐怖、だけではなかった。微かな憧れと淡い想いを募らせていた相手の中に、冷たい刃物を見たことが……ひどく悲しかったのだ。

「紅茶屋のお嬢さん」

 男は壁際に追いやられた私を囲い込むように腕を突いて、耳元で囁く。こんな状況なのに、くらっとして、体から力が抜けてしまいそうになる。

「俺の真実を見てしまった君を、どうしようか? こいつらに任せてもいいし、せっかくだから君の中の黒い部分を解放して、こちら側に堕としてやってもいい……」

 善良な人間の中にも必ず黒はあるものだ、と、男は呟く。後半は何を言っているのかさっぱり分からなかったけれど、どちらにしても、私は酷い目に遭わされるのに違いない。

 あまりにも恐ろしくて、涙さえ出てこない。

 けれど、男は不意に、私の頰を撫でた。体温というものが全く感じられない、けれども思いがけず優しい触れ方に、思わずその顔を見つめてしまう。

「しかし、君はあの店の主人だ。……あのアールグレイはいい香りだ、と、エンジェルが気に入っていてな。店主が替わったら、あの茶葉も手に入らなくなっちまうよな」

 エンジェル?

 戸惑う私に微笑んで、男は離れた。そして、右手を挙げて……

 パチン、と指を鳴らした。


 ちりりん、と扉につけられたベルが鳴り、いつもの彼が来店する。黒一色の上等な服、整えられた黒髪、心臓を掴まれるような黒い瞳。その目が私をちらりと見て、いつものようにショーケースに注がれる。

「アールグレイを」

「かしこまりました」

 これ以外には交わしたことのないやりとりだけれど、これだけでまたひと月、幸福に過ごせそうな気がする。

 そう思っていたら、紙袋を手渡すとき、男は初めて私に微笑んだ。

「いつもありがとう。これからもよろしく」

 頭が真っ白になって、ひとつの言葉も出てこなかった。口をぱくぱくさせる私に手を振って出て行ったその背中を見送って、私は暫く何も手につかなかった。

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