奇跡の中で(2)
労わるような調子の声に頷いて、私は執務室を出た。そのまま人間界に降り立って、自分の家には戻らず、悪魔の居宅へと足を向けた。立派な高層マンションのエントランスで鳴らしたインターホンに誰も応答せず、合鍵を使って黒一色の部屋に入り、主人の不在を確認する。
深く息を吸うと、愛する男が確実にこの世界に存在しているのだということが感じられて、少しホッとする。コーヒーの匂い。出がけに使ったのであろう、対人間用の香水の匂い。
私以外に誰も立ち入ったことのないであろう寝室に入り、黒い寝台に腰掛け、目を瞑る。睡眠用には滅多に使われないその寝台に、つい先日、共に横たわったときの匂いがする。
私の匂いと入り混じった、彼の匂い。
「……天使サマ?」
驚いた声に目を開くと、愛しい悪魔が立っていた。手に、脱いだばかりらしいジャケットを抱えている。
「ああ、ラブ。勝手に入ってしまってすまない」
「合鍵を渡してる訳だし、お前になら奇跡を使った無断侵入を受けたとしても歓迎するが……、大丈夫か?」
不安そうな声だ。隣に腰掛けた悪魔の、長く美しい指先が、私の頬に触れる。
「……泣いていたみたいだ」
天使には、感情的な涙は流せない。だが、それを分かっている筈のこの男は、時折そんなことを言う。私のことを、どこまでも分かり、愛してくれるこの男は。
「うん、少しね。……お前も私も、今ここにいられて、本当によかったなと思って」
何かあったのか、とは聞かれない。そんな自明のことは。その代わり、悪魔は私を強く抱きしめた。冷たく、慣れた体温に、肩の力が抜けるのが分かる。
「俺は、お前と一緒にいられるってことが、どれだけあり得ないことなのか、大切なことなのか、分かってる。いつも感じてる。だからいつも、……怖い」
はっとして、その顔を見上げる。私を見つめる表情は、いつもの通りに優しげだ。だが、その赤い瞳孔の奥に、震える魂が見えた。先ほど天界で、私を襲ったのと同じ震え。
「エンジェル。俺は例え、またあのときと同じ状況になったとしても、同じことをできる自信がある。お前のためなら、俺は俺自身を消し去ることができる。……だから、怖いが、……一緒にいたいんだ」
ああ、そうなのか。この男は私よりも更に具体的に、堕天の意味も、それがもたらす結末も、分かっていたのだ。分かっていて、怖がりながら、それでも尚。
初めて身も心も結ばれたとき、この男が流した涙を覚えている。月光に照らされた、その輝きを覚えている。
私たちは、何という幸せの中にいるのだろう。
「ラブ。今まで私は、私たちの立っている場所がどれだけ危ういものなのか、完全には理解していなかった。けれど、今、分かったよ」
男の体を、抱きしめ返す。
「私も、あのときと同じ状況になったら、また同じことをする。お前の記憶を全て封じられても、また、必ず思い出す。そして、どこにいようと……月にいたとしても、必ず、お前を見つけ出して見せる」
悪魔が笑った。私も笑った。
静かな月の光が照らす部屋で、私たちは長いこと、そうして動かなかった。
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