奇跡の中で(1)
地区の信仰者数や悪魔の動向、その他諸々の情勢をまとめたレポートを持参し、私は天界へ向かった。人間の技術の基となった転送システムもあるにはあるが、その途中での悪魔による情報改竄の恐れがあったりとトラブルも絶えないので、持参した方が確実なのだ。眩く静かな天界の、白いばかりのオフィスを歩く。大天使の執務室はオフィスの最深部にある。
「レポートを提出に参上しました……」
扉をノックして言いながら、半身を部屋に入れる。しかし、中には誰の姿もない。
「大天使……?」
大天使はその職務の性質と規模、数の上から、ほぼ執務室から離れることはない。数多いる天使たちからレポートを受理し、それを解析して我々に指示を出し、地球上の人間たちの動静を見守って、必要なときには自ら赴き処理を行う彼は、基本的にここにいなくてはいけない存在だ。ということは、何か緊急に動かなくてはいけないことがあったのかもしれない。
仕方ない、待つか、と思ったとき、後ろから落ち着いた声が聞こえた。
「おや。レポートかな。待たせてしまった。すまないね」
暗色の髪を常のように主の威光で輝かせ、静かに歩く大天使は、執務机に向かいながら私の差し出したレポートを読み始めた。座るとき、何やら懐から取り出して、そっと机に置いた。……あれは、何だろう。見覚えのない物体に、つい好奇心が頭をもたげる。
白い結晶物。水晶か、それとも単なる硝子細工か。掌にのる小ぶりなサイズで、常にどことなく輝く天界の光を反射して、きらめいている。不思議なのは、その白っぽい結晶と混ざり合うようにして、黒い結晶物も付随しているということだ。たしかに鉱石は複数の石が混ざり合って発見される場合があるが、互いに絡み合うようにして結晶するなんて、珍しい。
「よし、確認したよ。何か補足事項があれば……」
レポートの頁を繰っていた大天使は私を見て、言葉を止めた。
「なるほど。これが気になる様子だね」
「あ、いえ……」
自身の職務に関わること以外に興味を持つのは、天使としてはあまり歓迎されない性質だ。少し恥ずかしい気持ちになりながらその場を辞そうとした私を、大天使は呼び止めた。
「お前の、そういう好奇心はよいものだ。気にすることはない。それに、これは秘密でも何でもないし……お前に関わりがある物だとも言える」
「え……」
大天使はレポートを仕舞うと、机の上の結晶物を改めて中央に置き直し、私を手招きした。
「触って、確認するといい」
「……失礼します」
近づいて、それを手に取る。ひんやりとした冷たさは無機物のそれだが、見た目に反して柔く、絹のような触り心地だった。それはまるで、私たちの羽のような……。
「これは……」
思わず取り落としそうになった私の手をさっと握って、大天使は頷いた。
「そう、これは堕天使と悪魔の結晶だ」
言葉が出てこない。たしかに今触れている物から感じ取れるのは、微量ながらも、聖なる力の痕跡と、邪なる力だ。どちらもとても純粋で、混じり気がない。けれど、けれど……結晶だなどと。それも、こんな風に混じり合った状態で。
「な、なぜ」
「当然の疑問だね。これは、悪魔たちと直接交渉する仕事に就いている天使から受け取った物だが……実は度々、こういう物は世界に現れてしまう。これは、悪魔に誘惑されて堕天した天使と、それを悔やんで共に封印されることを選んだ悪魔の、成れの果てなのだ」
「……な」
今度こそ本当に、言葉を失った。それはあまりに、私と、私の愛する悪魔とが過去に置かれた状況に酷似している。
大天使は微笑みを絶やさない。
「お前は堕天し切る前に、あの悪魔の愛によって救われたから、こうはならなかったのだよ。もちろん基本的には、堕天した同胞の始末は私の役目だ。だが、それが間に合わないことも多い。そのまま行方知れずになる者もいる。この結晶は、私以外の天使がそういう彼らを見つけて、封印した物に他ならない」
私以外の天使には、悪魔を完全に消し去るようなことは実行できないからね、と続く言葉に、納得と、胸がざわつく感覚を得た。
これは、恐れだ。
「ああ、お前を怖がらせたかった訳ではないんだ。そんなに震えないでくれ。……お前と、お前の悪魔は、だから本当に特別なのだよ。共に滅ぶことを選択せず、共に相手を生かすことを選択した。お互いに、その身を犠牲にして。……それこそが、この結晶とお前たちとの、明確な違いだ」
つい昨日のことのように思い出せる、あの悪魔との再会。感覚として、あの出来事がどれだけ貴重でありがたいことかは分かっているつもりだったが……こうして「そうなっていたかもしれない分岐の先」を目の当たりにしてしまうと、様々な思いが湧き出てくる。……ぐらぐらする。
「……私はこれで、失礼します」
「ああ。刺激が強すぎたようだ、帰ってゆっくり休むといい」
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