新しい光(7)

 そして、今だ。

 誰にも邪魔されない、地上と地下との中間地点。人間は絶対に入り込めない、わたしが所有する空間だ。人間の手になるものでわたしが特に気に入っている、豪勢な図書館の閲覧室を模している。その椅子のひとつに眠ったままの天使を座らせ、仕事の話があると呼び出したあの悪魔を、悠々と迎えたというわけだった。

「来てやったぞ。お前から仕事の話なんて珍しい……」

 条件通りに他の何者も具さずにノコノコと現れた男は、言葉の途中で、瞳を怒りに燃やした。たださえ赤くこちらを射抜くような瞳孔が、初めて見るほどに強く輝いている。こちらにアドバンテージがなければ、尻尾しっぽを巻いて逃げ出しているところだ。

「お前……どういうつもりだ。なぜそいつを」

「なぜ? ……こんなセリフ、言う日が来るとは思いませんでしたが……、ご自分の胸に手を当てて考えてみては」

 黒髪の男はそれでもまだ余裕ぶって、顔を歪めて笑う。

「心当たりが多すぎるな。一体どれの話か……」

「とぼけても無駄ですよ。わたしの仕事の邪魔をして、ひとりの小娘をかすめ取ったでしょう」

 黙った男に代わって、わたしは言葉を続けた。

「アメリカから来た外交官一家の殺害とすり替え。その仕事が、貴方のせいで失敗した。ダイアナ・エバ・クラークの肉体と魂を、貴方はわたしの手から奪い取ったのですよ。……悪魔の仕事の邪魔をするということは、つまり、こういうことでしょう。貴方も分かっているはずです」

 わたしが言葉を切ると、男はため息をついて首を振った。

「そんな仕事の話は初耳だし、そんな人間の名前も初めて聞いた。邪魔なんて、してやいない」

 思わず、手近な机を殴りつけてしまった。脆い木製の机は無惨に砕け散り、床に散乱する。その破片が天使の頬に当たり、意識を手放している無垢な存在は、ピクリと反応する。男の顔から余裕が消えた。

「貴方は、もう少し賢いと思っていましたが、そうでもないようですね」

 天使の輝く金色の髪を掴んで、ぐいと引っ張る。わたしが起こさない限り目を覚まさない、白い顔が上向く。

「こんな平凡な天使に執着する気持ちはまったく理解できませんが……それでも、貴方の数少ない弱点ですからね。その意味で、この天使には感謝していますよ」

「そもそも、そいつをどうやって」

 特別な関係性でない限り、天使と悪魔は互いに触れ合うことなどできない。天使の聖なる空気は、悪魔の肌をく。そういう風に、できているのだ。だからそれは当然の疑問だが、答えるのは簡単なことだ。

「触れてよいという契約を交わしただけですよ。貴方に姿を変えた上でね」

 相手の瞳の炎が、ますます強まる。怒りを通り越した、憎しみの色。

 ぞくぞくする。

「この天使は、貴方に相当、気を許しているのですね。何ひとつ疑おうともせずに、手の中に落ちてくれました」

「黙れ。黙って、そいつを解放しろ」

「いやですよ」

 握ったままの金髪を持ったまま後ろに逸らし、その白い首筋をあらわにする。少し離れた位置に立つ相手にもよく見えるよう、爪を立てる。

「エンジェルを放せ。そいつは関係ないだろう」

「関係ない? 仕事の邪魔をされて仕返ししたい相手の、弱点ですよ。関係ないわけがないでしょう」

 少し爪を食い込ませただけで、柔らかな肌に傷がついた。赤い液体が、球状に膨らむ。

「くそ、要求はなんだ? 人間どもの魂か? なら、好きなだけくれてやる。だから……」

「そんなもの、貴方から奪うほど不自由していませんよ。わたしはただ、貴方が苦しむ姿を見たいだけです。でも、そうですね。強いていうなら……わたしが欲しいのは、ただひとつ」

 こういうとき、人間たちがよくとる仕草の模倣として、わたしは眼鏡の位置を直した。あろうがなかろうが何の違いもない、本来の用途を成さない道具の、細いブリッジに指を当てる。

「ダイアナ・エバ・クラークの魂です」

 男は、今にもわたしの喉笛に噛み付かんばかりに唸った。執着する天使か、保護する元人間か。その心が、魂が、激しく揺らいでいるのがわかる。わたしはその様子に優越、愉悦を感じるのと同時に、目の前の男の、そのあまりの悪魔らしからぬ葛藤に、驚きさえ感じていた。もちろん、そうした葛藤を生じさせる目的でこのような行動に出たわけではあるが……、悪魔という、合理性に重きを置く存在が、こんなにも不合理な心理状態に自らを置いてよしとしていることが信じられない。

 これではまるで。

「……そんな人間、知らないと言ってるだろう。お前が何を勘違いしているのか知らないが、脅す相手を間違えているんじゃないのか」

「……なるほど。かすり傷だけでは足りないということですか。ならば……」

 空中に出現させた小さなナイフを取り、天使の左腕に当てる。

「眠りとは無防備なもの、それは人間にも天使にも悪魔にも、変わらないものです。肉体の損傷は、意識しなければ治癒もできない。僅かな傷でも、眠っている間に受ければ、人間の肉体を模倣している器には致命傷となり得る……我々にとっては初歩の初歩の知識ですよね」

 鋭利な切先きっさきを閃かせると、男は叫び声を上げた。

「わかった! わかったから、もうやめてくれ」

 悲痛な声だった。いや、感情というものの幅が大きい人間が聞けばそう表現するだろう、というだけの話だが。力ない、抵抗を諦め切ったその声は、わたしの耳には甘美に響いた。

 勝った。

 おそらく、まともにやりあえば無事では済まないであろう相手に、負けを認めさせることができた。自らの力不足にうなだれ、肩を落とす男を見ながら、わたしは自分の中にあったらしい、相手へのつまらない感情に気がつき始めていた。……劣等感だなどと。

 しかし、その不快な気づきも、今となってはもう無用のものだ。男は憔悴し切った表情で両腕を挙げた。その姿勢では、指を鳴らそうとすれば、すぐに目に入る。つまり男は、自らの魔法のトリガーを放棄したわけだ。

「……早くエンジェルを解放してやってくれ。この通りだ」

 思わず、笑みがこぼれた。この男の、こうも消沈した姿を見ることができるとは。

「長く生きてきた甲斐がありましたよ。ついでに、これ以降、絶対にわたしに逆らわないよう、契約でも交わしておきましょうか。……さ、ひざまずいてください」

 一瞬、その黒目が鈍く輝いた。不服を全身で表現しつつも、ゆっくりと、男は膝を床につける。天使の体はそのままに、わたしは跪いた男のすぐ前まで歩み寄った。こうべを垂れる姿を見下ろしていると、笑いが込み上げてきて、止まらない。

「ふふ、ふふふふふ……」

 拮抗しているように見える実力が、ほんの僅かの差で相手に軍配が上がっていることを、理解していないわけではなかった。ずっと、わかっていた。似たような仕事を任されても、期待された以上の成果を上げるのは、いつもこの男だ。ほぼ同じ地位にいるのに、仲間内で一目いちもく置かれているのも、この男だ。わたしがいくら使い魔たちをうまく使役しても、人間を悪に導いても、うまくやるのはいつも。

「うっふふふふふ……! 愉快です、愉快ですねえ!」

 身を屈めて、男の顎を掴んで、上向かせる。不服だろうが何だろうが、一度、立場というものをはっきりさせなくてはいけない。魂を屈服させるというのは、そういうことだ。細く開かれた瞳の中に、満面の笑みをたたえた、わたしが映る。その黒い玉が、笑みの形に歪んだ。

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