あるエクソシストの執心(1)

 エクソシズムは、近年になってその技術や方法の伝授が盛んになってきている。バチカンでは講座を開き、広く受講者を募っているという。秘匿されてきた技術の開陳は、しかし驚くに値しない。キリスト教に限らず、この世の宗教というものは、社会の変遷に伴ってアップデートを重ねてきたのだ。多くの文化、伝統は、その根本を守りつつ、柔軟に外形を変容させていく。そして、それができなかったものから、順に滅びていく。

 そういうわけで、キリスト教の総本山からは多少離れたこの国にも、エクソシズムを修めた司祭が幾人か存在している。奴らの技術のどの程度が、本当に俺たち悪魔に効くのかは、実はよく分かっていない。全く効かないと言う意見が大多数だが、中には、その信仰心の強さのみで、小悪魔を祓ってしまった者もいると聞く。とはいえそれが実話だったとしても、恐らくは使い魔の末端、さして力のない夢魔あたりがやられたに過ぎないだろう。そして、奴ら自身、本物の悪魔になど、そうそう相対してはいないはずだ。いくら信仰心が強いと言っても、ただの人間相手に俺たちがわざわざちょっかいをかけるような真似はしない。それに、そもそも人間には、俺たちが悪魔であるという確信は得られない。それこそ俺の使い魔のひとりであるダイアナのような、奇跡も魔法も受け付けない特殊体質者なら別だが、そんな人間は稀だ。悪魔として生まれて何千年も生きてきた俺でさえ、そんな体質の人間は、ダイアナしか知らない。

 だから、年明け早々、仕事現場に若い司祭が乗り込んできたときには、正直言って、驚いた。

「邪悪な霊め、ここから去るがいい!」

 そんな威勢のよい声とともにビルの一室に現れたそいつは、真面目に黒いカソックを着込み、髪と同じブラウンの瞳で、俺を見据えていた。手にはクロスを握りしめている。無用の象徴が、窓から差す日光に輝く。俺はどうしたものかと、隣にいる仕事相手を見遣った。仕事相手は、俺にとっては非常に使い勝手のよい、つまりは悪事によって生計を立てている人間の男だった。魂は綺麗に黒く、自分のそれが俺の手の中に握られていることにも気づいていない。腰をかがめて耳打ちし、さっさと逃げるように促すと、それを待っていたと言わんばかりに、男は駆け出して、逃げ去った。どう出るかなと思って見ていたが、年若い司祭はそちらには目もくれない。真剣な眼差しで、俺だけをひたと捉えているのだった。

 なるほど。この男、ひょっとすると、特別、鼻がくのかもしれない。

「司祭サマ。こんな場末に何の御用です」

「しらばっくれるな。お前が邪悪の者であることは分かっているんだ」

 司祭は相変わらずクロスを突き出した格好で、ジリジリと近づいてくる。さして広くもない部屋なので、壁際に立っていた俺の前に、すぐに辿り着いた。司祭であるということは、二十五歳以上であることは確実だが、随分と童顔だ。日本人は幼く見えると聞くが、この国の人間で実年齢よりもよほど若く見えるとは、珍しい。そんな、どうでもいいことをぼんやり考えていると、司祭は俺にクロスを突きつけた。

「主の御名において、お前を地上から……」

 つまらない言葉を吐き始めた、その体に軽く手を添えて力を加え、ターンするように立ち位置を交換する。俺よりも頭ひとつ分ほど身長の低い身体を閉じ込めるように、壁に手を突いて見下ろす。

「な」

 ブラウンの瞳が、初めて揺らいだ。

「たしかにカトリックでは禁じられているかもしれませんが……、恋人同士の逢瀬を邪魔だてするなんて、司祭サマも人が悪い」

「こ、恋人?」

 口をぱくぱくさせながら、司祭はますます身を固くする。てっきり反撃してくるか、それとも逃げ出すか消えるかするだろうと考えていた相手が、思いもよらないことを言い出したら、それは誰だってそうなるだろう。これだから、まだ経験の浅い聖職者をからかうのは面白い。仕事を邪魔だてされたことは腹立たしいが、ただこいつの記憶を消してしまうだけではつまらない。それに鼻が利くのであれば、記憶を消したところで、またどこかで俺を見つけて、同じように突っかかってくるだけだ。

 混乱しているらしいその顔に口を寄せて、そっと囁く。

「それとも司祭サマがお相手をしてくださるとでも?」

「なっ……な、」

 耳まで赤くして、うぶな司祭は俺の腕の間をすり抜けようとする。その身体をやんわりと止めて引き寄せ、もがく腕をそっと拘束しながら、大きく見開かれた目をじっと見つめる。魅了、までしなくとも、悪魔に元から備わっている誘惑の性質に、司祭が抵抗しつつも傾きそうになっているのがよく分かって、面白い。笑い出したくなるのを抑えながら、俺はことさら優しい口調で言う。

「禁じられていると言っても、司祭サマだって人間だ。触れられるのは気持ちいいものでしょう」

 言いながら、その腰に指を這わせると、司祭はびくりと反応した。

「や、やめろ……邪悪の者め」

 言葉は強気だが、声は震えている。しかし、こうやって拘束されてしまえば抵抗もできないなんて、エクソシストには格闘技の修得でも義務化した方がよいのではないか。今度、愛する天使に提案でもしてみるか……などと他愛ない思考を巡らせつつ、カソックのボタンに手をかける。白いシャツと黒いスラックスが見え、その下で恐怖と、本人も意識していないであろう微かな期待とに熱くなっている肉体が震えている。

「気持ちいいと感じることの、何がいけないのです?」

 スラックス越しに軽く指を滑らせただけで、司祭は泣きそうな顔をした。そうだ、そのまま落ちてしまえ。若く、精力的に活動している聖職者をこちら側に落とすことができたなら、上出来だ。さっき台無しにされた仕事の穴を埋めて、余りある成果と言えるだろう。俺が舌なめずりをしそうになったとき、司祭は思い切り身をよじった。この期に及んで、なおも抵抗できるとは。

「やめろっ……」

 その努力に免じて、俺は力を緩めてやった。司祭はどうにか俺の腕の中から抜け出し、こちらを睨みつける。もうクロスを掲げたりなどはしていないが、逃げ出そうという素振りもない。仕方ない、籠絡ろうらくも追い払いもできないのならば、さっさと退散するまでだ。

「手荒い真似をいたしました、すみません。司祭サマが好みのお顔だったもので」

 俺の冗談に、司祭は顔を歪め、聖書の一節を口走ろうとした。その文句の先を俺が引き継いで見せると、大きな目が瞬いた。

「聖書は悪魔にも引用できる……とは誰の文句でしたっけね。しかし、これでお分かりになったでしょう。俺は邪悪な者ではありませんよ」

 困った、というように両手を挙げて見せたが、司祭は引き下がらない。自分の判断に自信があるのだろう。

「お前からは邪悪の匂いがするんだ……ぼくの鼻は間違ったことがない」

「そうですか、香水をつけ過ぎましたかね」

「ふざけるな」

 俺はもう言葉を返すのも面倒になり、無言でその横をすり抜けた。クロスも聖書の一節も、俺には何の意味もない。効くとすれば聖水だろうが、そんなものを四六時中身につけている司祭など聞いたことはない。案の定、若い司祭はただ俺を引き止めようとするばかりだった。

「待て、止まれ! また少女たちに取り憑いて、魂を汚す気なんだろう」

「……はて、少女? 俺の預かり知らぬ話ですね」

 本当に知らなかった。きっと、別の悪魔の仕事と勘違いしているのだろう。ああ、もしかすると、この地区で、そういう仕事に手を出した輩がいるのかもしれない。こいつは最初からそれを追っていて……ということは、俺がこんな風に仕事を邪魔されたのも、その勘違いのせいか。

 おかしいとは思ったのだ。俺は仕事に痕跡を残したりしない。いくら鼻の利く司祭だとしても、痕跡のない事件を追って、こんなビルの一室までたどり着けるとは思えない。だが、このビルが他の悪魔の仕事にも使われていたのだとしたら……。

 舌打ちしたくなった。俺は、誰か杜撰な同胞のせいで、順調だった仕事に水を差されたわけだ。

「それでは、また会う日がありましたら、よろしく」

「ま、待てっ……!」

 背後で慌てたように走り出した足音を聴きながらドアの向こうに身を滑り込ませて、俺はさっさと鼠に姿を変えた。

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