十二月二十五日は外に出よう
この街では、雪は積もらない。年がら年中どんよりとした雲に覆われ、カラッとした晴天とは縁の薄い国の首都として、冬も、その陰鬱とした空気を頑なに守りたがっているのだ。白くてふわふわした綿毛のような雪なんて、自分には似合わないとでも言うように。以前、愛する天使がそんな天候を憂いていたことを思い出す。俺はため息をつきつつ、外の白けた光を締め出すように、カーテンを閉めた。
もう数世紀も前から続けている慣習を、守る日が来た。
十二月二十五日。俺が、外に出ないと決めている日だ。
人々の信仰心が最も強まるこの日は、俺に限らず、他の多くの悪魔たちも自主的に休養をとっていると聞く。昔の俺のように、この日に痛い目にあったやつも少なくないのだろう。それを分かってか、この日ばかりはご主人サマも、急な仕事を命じることはない。世間が盛り上がっている中、悪魔たちは各々の根城で静かに過ごす……今日は、そんな日だ。
地上から何十メートルも離れた高層階では、子供たちのクリスマスキャロルも聞こえない。絞った照明の下、悪魔には不要の睡眠でもして無為な時間を削ってしまおうと考えた。どうせ急ぎの仕事もない。使い魔たちには一日の暇をやったので、眠りを妨げる者もあるまい。黒い寝台に横たわり、頭の中から余計なものを取り除いていく。ただ魂の器でしかない、五感を模倣しただけのこの肉体は疲れを知らず、つまりはその回復手段である睡眠も要らない。だから、眠気というものを催すことはない。俺たちが眠るためには、忘我に等しい意識の滅却が必要になる。それは仕事と同等の労力が必要になる作業だ。そういうこともあって、普通、悪魔は睡眠など考えもしない。俺もその例に漏れず、普段は眠ろうなどと思うことはない。そもそも膨大な仕事を常に抱えている身では、そんな考えが浮かぶ暇もない。
だが、この日ばかりは話が別だ。十二月二十五日には、起きている方がよほど苦痛を感じる。科学というものが浸透する以前と比べれば人々の信仰心自体は薄まったとは言え、この日は普段、信仰など思い起こしもしない筈の人間たちでさえ祈りを唱え、讃美歌を歌い、神への感謝を口にする。その一挙手一動が聖的な力に変換されて、悪魔の肌を灼くのだ。こんな日に街を歩こうなんて、正気ではない。数世紀前の自分が、どれだけ愚かしいことをしたものか、今はよく分かる。
とは言え、その愚かしい行動のお陰で、俺はあいつに出逢うことができたのだが。
美しい天使の姿を思い出すと、せっかく散らしかけていた思考が再び纏まり始めてしまった。金色に輝く髪、見果てぬ楽園を思わせる蒼天の瞳。華奢な四肢、可憐な顔立ち。まだあどけない少年のように素直な気質を感じさせる、青年の形をとった、俺の最愛の存在。
天使に恋する悪魔、なんて、妄想
散らし切れない思考が、あいつの姿に固まっていく。初めて逢ったあの日から今まで、俺の胸を占有するあいつのことを考えると、あまりの愛しさに、苦しささえ感じてしまう。その苦しさは過ぎた幸福からくるもので、俺の頭の芯を陶酔で満たす。普通なら何かを考えながら眠るなんてことはあり得ないのだが、意識がじんと痺れる心地よさに浸っているうち、自然と眠りに落ちていたらしい。
再び目を開いたとき、目の前に、天使の美貌があった。
「……あ? 天使……?」
「お前の天使だよ、マイラブ」
おはよう、と歌うように囁くその声に、ようやく全身が眠りから覚めた。慌てて体を起こすと、寝台の縁に座った天使は面白そうに笑った。
「そんなに慌てないでくれ」
「いや、まさか天使サマが来るとは思っていなかったから……ちょっと待ってくれ、身なりを整える」
指を鳴らして、髪型から服装までを一瞬で整える。しかし、先ほどの
俺とは対照的に落ち着いた天使は、立ち上がろうとした俺をとどめ、隣に座るよう促した。
「ふふ。いつも完璧なお前の、ぼうっとした顔を見られるのも私だけなんだと思うと、嬉しくなってしまうな」
「わ、忘れてくれ……。ところで、今日は忙しいんじゃないのか」
悪魔とは違って、天使はこの日、忙しくしている筈だ。イベントにかこつけて芽生えた信仰心を今後も継続させるため、あらゆる手を尽くして多くの人間の上に奇跡を降らせる仕事に追われているものと思っていた。特に、こいつは今、バチカンの下部組織に所属している身だ。ひょっとすると本部に呼ばれて過ごすかもしれない、とも聞いていたので、てっきり、教会の仕事を割り振られたのだとばかり。
天使は俺の問いに、小さく首を振った。
「この間、今日は絶対に仕事をしないと言っていただろう。一日中、家に引きこもるって。それで思いついたんで、休みをいただいたんだよ」
「思いついたって、何を?」
天使は、にこやかに答える。
「外に出て、一緒にクリスマスを過ごそう」
言葉を失ってしまった俺の手を、天使は包み込むように握った。汚れを知らない純粋な視線が、俺を捉える。
「クリスマスは、もちろん、お前たち悪魔には刺激が強すぎるだろう。でも、とても美しい日なんだよ。この日にしか点灯しないイルミネーションもあるし、限定の紅茶やお菓子も販売されるんだ。一緒に歩いたら、絶対に楽しいよ」
「だがな、天使サマ……」
今日という日がどれだけ濃厚な聖なる空気に満たされているものなのか説明しようとした俺の唇を、天使の細い指が止めた。
「大丈夫だよ。人間が放つ信仰心による聖なる空気と、本物の天使である私が纏う聖なる空気とでは、どちらの方が強いと思う?」
「それは……」
言わんとしていることが、ようやく分かってきた。
俺は、契約相手であるこの天使が放つ聖なる空気に触れても、何の問題もない。天使にしても同様で、俺の
「天使サマ……」
「私と共にいれば、大丈夫さ。お前のことは、私が守るよ」
その笑みは、純白の翼のように、俺の魂を抱いた。清浄な空気が、俺の体を覆っているのを意識する。
ああ、初めて逢ったあのクリスマスから、何も変わっていない。この天使の潔白の魂は、いつでも俺を救い上げる。
「この日にお前に助けられるのは、二度目だな」
俺の言葉に、天使は首を傾げた。
「え?」
「いや、何でもない。……そうとなれば出かけようか、エンジェル」
ジャケットを羽織り、コートを着込む天使と並んで寝台から立ち上がる。閉じ切っていたカーテンを開けて昼の暖かな陽光に目を細めながら、人間のように昂揚し始めた自らの気持ちに気がついて、おかしくなる。黒いマンションの玄関から一歩、踏み出す。人々の陽気な雰囲気と共に、街中に満ちた信仰の空気が、分厚いガラス越しに見ているように遠く感じられる。俺の周囲を取り囲んだ、天使の聖なる空気が、俺を守っているのだ。
「ああ、本当だ。これなら、全然大丈夫だろう」
「よかった」
俺の腕に自身の腕を絡めながら、天使は微笑む。歩き出すと、白くて綿毛のような雪が、ちらほらと降り出した。晴天の温かい光を反射しながら、静かに路上に吸い込まれていく。人間の気象予報ではまったく予測されていなかった天気だ。……これは。
「天使サマ」
俺の視線に、天使は悪戯がバレた子供のように、ちろっと舌を出した。
「こんな日くらい、綺麗な雪が降らなきゃ、嘘だろう」
「違いない」
奇跡的なホワイトクリスマス。恐らくこの雪は、美しいままに降り積もり、明日の朝、子供たちを歓喜させることだろう。
天使のささやかな奇跡が羽根の如く舞い降りる中、数世紀ぶりの十二月二十五日が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます