you're my……
天使という存在は皆、聖なる空気を纏っているものだ。それは邪悪な存在を自然に退け、澱んだ空気を清浄にする。だが、目の前で幸せそうに紅茶を口にする天使が纏っている空気は、そんなものではない。
「……どうしたんだ、そんなに見つめて」
大きな青い瞳が俺を捉える。どこにでもある照明器具の灯りが、この天使の眼に吸い込まれた途端、満点の星々も敵わない輝きに変わる。邪悪な存在を退けるどころではない、邪悪ですら喜んで跪きたくなる神聖さが、俺を捉えて離さない。
「天使サマに見惚れていただけさ」
正直に答えると、俺の天使は僅かに頬を赤らめた。少年の面影を残した美青年という華麗な容姿をとっているというのに、その性質上、何かを褒められるということなく暮らしてきたこいつは、どうやら褒められ慣れていないらしい。
「天使はみんな、私のような外見のはずだ。少なくとも、通常時は」
紅茶のカップを机に置き、天使はまだ赤い頰で言う。ああ、こいつは俺が何を言いたいか分かっていない。
俺は席を立ち、簡素な机の向こう側へと回り込んだ。その綺麗なブロンドの輝きに指を滑らせ、梳くように撫でる。天使の体が僅かに緊張するのが分かるが、手は止めない。身を屈めて、その耳元に口を寄せる。
「お前は他の天使とは違うぜ」
「な、何が……?」
くすぐったそうにしながら、天使は首を傾げて俺を見る。
「魂の輝きが……愛の形が」
そのまま口付けようとしたが、天使が目を軽く見開いて、急に立ち上がったせいでできなかった。
「おいおい、どうしたんだ」
「確かに、私は他の天使とは違う……お前のおかげで愛を知ったから」
きらきら輝く瞳でそんなことを無邪気に言われては、返す言葉もない。天使は、他の何者にも出来ない、まばゆい微笑みを浮かべた。
「だからお前も、他の悪魔とは違う……少なくとも私にとっては」
「…………」
一瞬、口が馬鹿みたいに開いてしまった。慌てて首を振って気を取り直して、それでもなお言葉が出てこない俺に、天使はにこやかに言う。
「私たちはお互いに特別同士だ。それなのに、いつまでもお互いのことを『お前』としか呼び合っていないのもおかしな話じゃないか?」
「あー、いや、俺は『天使サマ』とも呼ぶが」
ようやく出た言葉は、そんな間抜けなものだった。
「でも、私は他の天使とは違うんだろう。じゃあ、もっと別の呼び方をして欲しいな。私も別の呼び方でお前を呼んでみたい。人間たちも、親しい間柄では特別な呼び合い方をするものだろう。私もやってみたら、人間の気持ちが分かるかもしれない」
「……勉強熱心なのは良いことだ」
俺が頷くと、天使は嬉しそうに目を細めた。
「本当はお互いに名前で呼びあえれば良いんだが……天使名は天使の間で使うものだしな。悪魔だってそうだろう」
「ああ」
天使も悪魔も固有の名前を持ってはいるが、それはお互いの言葉で気軽に発声できるものではない。例えば相手を調伏したいと思ったときには力を込めて唱えるということもあるだろうが……普通に呼び合うためだけに使うことはない。こいつに名前を呼んでもらえないのは、心底、残念だ。まあ、人間の中で使っている名前なら沢山あるのだが……それは結局、獲物である人間との関係性を規定するものでしかない。
天使は自分の思いつきにすっかり満足して、再び椅子に座った。俺は最初の気勢を削がれて、その正面の席へ戻る。こいつが人間に寄り添いたいと願っていることは、それを利用しようと思ったくらいには、よく理解している。それに実のところ、名前を呼び合えない分、それに付き合うのはやぶさかではなかった。
「じゃあ、俺のことは何て呼んでくれるんだ?」
「そうだな……」
天使はちょっと考えた。頭の中の、人間に関する知識を参照しているのだろう。
「ダーリン」
椅子から転げ落ちそうになった。
「だ、大丈夫か?」
「平気だ、心配ない」
これは俺の精神が幸福に耐えられないかもしれない。天使は心配そうな眼差しで俺を見つめながら、続けた。
「それじゃあ他の候補も言っていくぞ」
「頼む」
「ハニー」
拳をきつく握る。
「スウィートハート」
歯を食いしばる。
「ハンサム」
堪えきれずに机を叩いてしまった。
「す、すまない……そんなに嫌だとは思わなくて」
「いや違うんだ、天使サマ。その逆だ……」
首を振る俺に、天使は戸惑ったように首を傾げる。その可憐さが、ますます苦しい。
「でも、そうだな……どれもいまいちしっくり来ないな」
「そ、そうか……」
俺は、どう呼ばれても苦しい。
天使は少し瞑目し、やがて口を開いた。
「そうだな……うん。ラブと呼ばせてくれ」
苦しさを通り越して、意識が遠のく。月面で感じた多幸感が身体を襲う。くらくらする頭を押さえる俺に、天使は穏やかに言う。
「お前は私に愛を教えてくれた。こんな感情がこの世にはあるのだと。私にとって、お前は愛そのものなんだ」
何か言おうと口を開くが、喉がカラカラに乾いているようで言葉が出ない。悪魔の俺が、愛そのものだなどと。俺は幸福で殺される悪魔の、第一号になるかもしれない。
黙ったままの俺に、花のかんばせが曇る。
「……気に食わなかったかな」
そんなことはない、と、俺は思い切り首を振る。ボディランゲージというものは、言葉に等しく有能だ。天使は再び顔を輝かせた。
「それなら良かった」
そして、気がついたように付け加える。
「マイラブ」
数秒、記憶が飛んだ。
気がつくと、正面に座った天使が、困ったように俺を見つめていた。
「なあ、やっぱり、いやならやめる……」
「いやじゃない」
きっぱり断言する。いやなわけがなかった。ただ。
「ただ、天使サマ……その呼び方は数回に一度で充分だ。俺の心臓に悪い」
「そ、そうか……。分かった、本当は毎回呼びたいんだが、仕方ないな」
残念そうな表情も愛しい。ああ、こいつは本当に……。
「エンジェル」
「え?」
「俺は、お前のことをそう呼びたい」
桃色の唇が微かに開き、戸惑いの形をとる。長い睫毛が揺れて、俺の真意を測ろうとしている。俺は机越しに、その白く柔らかな手を握った。
「お前は俺にとって、天使そのものなんだ。他の天使たちとは違う、俺の前に舞い降りてくれた、俺だけの……」
初めて出逢ったとき、こいつが名乗った名前。その高潔さを表すのに、うってつけの名前。俺には、あのときからずっと、目の前のこいつだけが天使だった。他の有象無象は知らない。輝く天から舞い降りた白い羽根は、その目の眩むような魂の輝きは、永遠に焦がれるに値する、ただひとつのものだ。
天使は、にっこりと笑み、俺の手を温かく握り返した。
「分かった。好きなように呼んでくれ」
「ありがとう……エンジェル」
それからというもの、天使が誤って「ラブ」を連発するたびに、俺は数秒間の思考停止に陥るようになった。だが、あいつの愛でいられることの幸せに酔うのは、悪い気がしない。
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