アセビ

 愛飲している紅茶を切らしてしまい、調達しなくてはと思っていた時、黒髪の男が訪ねてきた。春とはいえまだまだ寒い中、いつものように薄着で、上には黒のジャケットだけ。手袋もマフラーも、彼には無縁らしい。

「紅茶を切らしたんだろう。言ってくれれば、車でも何でも出すのに」

「お前、運転できるのか」

 驚いて尋ねると、男は肩をすくめた。

「天使サマの心を射止めた悪魔に、できないことなんざないさ」

「ふふ、それは道理だ」

 たしかに、目の前のスマートな悪魔なら、何でもこなしてしまうだろう。人間を誘惑するというその職務上、必要なスキルでもあるのかもしれない。男が高級車を操る姿は、簡単に想像できてしまう。

 しかし今日は、車に乗るのがもったいないくらい、良い天気だ。

「お前が運転してくれる車に乗るのも楽しそうだが、今日は一緒に歩きたい気分だな」

「そう言うだろうと思って、歩いて来たんだ」

 男は微笑み、先に立って扉を開けてくれる。平和そのものの日差しの中、二人で並んで歩き出す。木漏れ日の美しい公園を横切りながら、その細いながらもがっしりとした腕に自分の腕を絡める。悪魔とは思えない穏やかな横顔を見上げながら、ふと心に浮かんだことを口にする。

「私は車の運転というものをしたことがないんだが、知識としては頭に入っているから、運転しようと思えば多分出来る。だから、今度二人で、車に乗ってどこかへ旅行しないか」

 男はちょっと首を傾げるようにして、私を見た。

「別に、お前が運転する必要はないぜ、エンジェル。俺は疲れない」

 優しい悪魔はそう言うが、私が運転する隣で、流れる風景に目をやる男を想像すると、不思議と心が浮き立つのだ。

 どこか、誰の目も届かないような場所へ、この愛とともに。私たちはもう、どこにだって行けるのだから。

 仕舞ってある羽がいつのまにか出てしまったかと思うような軽い足取りで、私たちは笑いながら歩き続けた。

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