fly me to the moon.

 聖バレンタインの祝日から、あの男に会うたびに、私は自分の感情と直面することとなった。あの日贈られた茶葉は、まだ封を切れていない。「勿体ない」という日本の言葉が、この場合ぴったり当てはまる。小箱ごと棚の中にしまってあるカードも、見ると呼吸が苦しくなるので、あれから一度も出していない。

 この感情の正体については、はっきりとは分からない。が、ひょっとすると、というひとつの推測がある。そして、そのことに対して、私の中には驚くほど葛藤がない。初め、あの男に身体を触られたときに身を苛んだ主への罪悪感が、今は全くないのだ。あのときは主から賜った身体を穢されたという悔しさがあったが、今はむしろ、高揚感と不安とが入り混じったような、幸福と不幸が同時に私の四肢を引き裂こうとしているような、そしてそれが妙に嬉しいような……非常に利己的で排他的な、およそ天使にはあるまじき感覚が私の全てを支配している。それが、あの男を前にしたときに、私をどうしょうもなく無力にするのだ。全てを投げ打って、あの男に自ら触れてしまいたくなる衝動を抑えるので精いっぱいになってしまう。ひと月ほど姿が見えなかっただけで落ち着きを失ってしまうくらいに、私の中で、あの悪魔の存在は大きくなっていた。

 だから直属の上司である大天使に直接呼び出されたときには、心当たりがひとつもないという訳ではなかった。身の潔白を心の底から訴えられるような、図太い神経の持ち合わせも。

 大天使は、白いばかりの何の装飾もない執務室で、やはり白い机に向かって書き物をしていたが、私が入ると顔を上げた。冷静な表情に、あるかなきかの曇りの影が落ちる。

「お前を呼び出したのは他でもない。自分で気が付いているかは知らないが、……羽根の先が、黒く染まりかけている」

 私は改めて、自らの背の羽根を確認した。目視できる範囲では、指摘されるような色の変化は見られない。しかし、聖性の管理に特化した大天使が言うのだ、まず間違いもないだろう。……ああ、本当に、私は。

「私は……」

「堕天するだろう」

 薄々、あり得るかもしれないとは思っていた。そうなっても良いという思いを抱いたことも、確かにある。だが、心のどこかで、まさか自らの聖性が蝕まれるようなことはあるまいと、たかをくくっていたのも事実だ。堕天、という言葉を実際に耳にすると、無意識にせよ、していた筈の覚悟が、やはり大きく揺らぐ。

「堕天は、……つまり主の側から、敵の側に堕ちるということだ。私はお前のことを高く評価してきた。他の数多の天使たちよりも、お前には人間に寄り添う姿勢が備わっている。我々は主の下で主の意向を人間界に反映させるよう動くために同質同傾向になりやすいが、お前のように、違った視点から物事を見られる天使も必要だと思っていた」

 大天使は、私たちに共通の穏やかな声音で、しかし淡々と言う。天使にしては珍しい暗色の髪が、天上界の絶えぬ光を反射してきらめく。それはそのまま彼の威光、つまりは主の恩寵を示すものだ。今、私が目の前にしている相手は、主に最も近いかもしれない御方だ。

「……残念だよ」

 ゆっくりと首を振る大天使の全身から、憂いが伝わってくる。私は今更になって震えだした身体を抑えながら、声を絞り出した。

「私が堕天したら……どうなりますか」

「お前も前例を知らないわけではないだろう。……安心しなさい。そうなったら、私がしっかり始末をつけてやる。だから、せめてそれまでの間、出来る限りの善を」

 始末をつける、というのはこの場合、悪魔に対するのと同等の処置を行うということだ。つまり……完全に消滅させられる。

 分かってはいた。今まで、決して少なくはない仲間たちが、おのおの事情こそ違えど、同じ末路を辿ってきたことを、噂で知ってはいた。……けれど、実際にその可能性を、いや未来を突き付けられる日が来るとは。

「……失礼します」

 ぐらぐらする視界の中で地上へと戻る道へ踏み出したとき、背後で大天使の声が言った。

「きっと、全ては主の計画のうちなのだ。運命を受け入れて、成すべきことを成せ」


 人間たちで溢れ返った地上に降り立ち、雨に濡れながら、人間としての棲家に帰り着く。もつれる指で回した鍵を、室内に入ってすぐに落としてしまった。拾い上げようとした拍子に、髪の先から垂れた雫が、床に染みを作った。まるで涙のようだ、と思いながら、それをじっと見つめる。

 こういうとき、人間は泣くのだろう。感情の波を鎮めて、浄化するために。だが、天使はそんな涙は流さない。ひたすら、主に与えられた器としての身体を守るためだけに、天使の涙は作られる。……そのはずだ。

 しかし、それなら、あの男に初めて身体を触られたとき、溢れた涙は何だったのだろう。

「主よ、私はどうしてしまったのですか。どうすべきなのですか」

 思わず跪いて、天上に隠された主へ、言葉を紡いでいた。組み合わせた両手に額をつけ、胸の裡で渦巻くものを吐き出す。

「天使は主の使いです、道具です……だから、なのですか。道具が……感情を、心の動きを知ることは、罪なのですか」

 窓の外は相変わらずの土砂降りで、天の恵みの光の一条も差さない。主は、今までもそうであったように、完全なる沈黙を保っている。黙ったまま全てを行う全能の主に比して、私はあまりにも小さい。以前は誇らしささえ感じられたその小ささが、今はひたすらもどかしい。

 消えてしまいたくなかった。大天使の指のひと振りで、この身が聖水に焼かれることを考えると、恐ろしくてたまらない。消滅それ自体が、ではない。消滅したらもう二度と、あの男に会えないのだと考えると、いっそ狂ってしまいたくなるほどの焦燥感に駆られるのだ。

 しかし同時に、これまで仕えてきた主に、善なる道に背くということも、同じくらいに耐えがたかった。大天使の粛清を逃れ、堕天使として生き永らえるというのは、完全なる消滅に等しい苦しみを示唆していた。私は天使として生まれたのだ。たとえ、これから天使でなくなるとしても。

「主よ……私のこの苦しみも、大いなる計画の一部なのですか。私は……私は、どうしたら良いのですか」

 声が震える。部屋に沈黙が下りる。窓の外の雨は、いつ止むとも知れない。



 堕天は、すなわち悪魔になることを意味する。俺のご主人サマが、その第一人者だ。しかし、悪魔すべてが元々天使だった訳ではない。俺のように、ご主人サマに悪魔として作られた存在も多い。そういう生まれながらの悪魔には、天使という存在は遠い。

 もちろん「敵」として、その特性はよく知っている。善良で、知的で、素直で、神聖という、大まかな特徴はよく把握している。だが、それだけだ。標的となる人間を間に挟んでのやり取りは日常茶飯事だが、直接的に対峙することなど滅多にない。ましてや、ひとりの天使に固執する悪魔なんてものはいない。俺の他には。

 地球上に張り巡らせている情報網のひとつに、堕天に関する噂話が引っかかったのは、今朝のことだ。ご主人サマが新たな同胞を生産しなくなってからというもの、堕天は滅多にない、新しい仲間を獲得するチャンスとして好意的に捉えられている。もちろん天使を直接誘惑しようなどと考える与太者はほとんどいないが、少しでも機会があれば隙に付け込んでこちら側に引き込もうと考える悪魔は少なくない。だから、堕天に関する情報は、例え噂話と片づけられる程度のものであっても、収集するに足るのだ。

 と言っても、実を言うと俺は、そういう意味で堕天情報を収集している訳ではない。もっと別の必要性に迫られて、特別の神経を注いできていた。それは俺が固執している、たったひとりの天使のためだ。

 俺の心の、ほとんど全てを占めているあいつの、純白の羽根が汚れた。

 あいつが堕天する確率は非常に低いと、俺は思っていた。もしそうなることがあれば、それは十中八九、俺のせいだろうが……しかし、あいつの美しい魂が、そう簡単に黒に傾くとは思えなかった。高潔な魂の光は、俺を焼きこそすれ、俺によって動じることなど、きっとないだろう、と。それは寂しいことだが、それでも、少しでもその光に照らされることができるのならば、と、空しい駆け引きを続けてきたわけだ。もしも、あいつが人間の愛情を理解したならば、その人間の愛情をもって、つまり、人間ならばこう考えるだろうというフィルターを通して、俺のことを思ってくれるようになるのではないか……、という、淡い希望もあった。人間のことを知りたがる変わり者の天使だから、そういうこともあるのではないか、と思っていたのだ。

 だが、あいつは堕天したという。もちろん噂話という、確度の低い情報だからしっかり確認する必要があるが、そういう情報が、根も葉もないということはあり得ない。情報戦に長けた俺たち悪魔の情報網が、馬鹿げた空想を拾ってくることはない。情報の出どころは不明だが、大方、天使たちのおしゃべりを誰かが聞きつけたのだろう。

 幸い、まだこの情報は、悪魔たちの中でそれほど重要視されていない。目下、他のあらゆる悪事に関する計画が立て込んでいて、それどころではないのだ。確認をするなら、早いに越したことはない。……しかし……もし、噂話が本当だったとしたなら、俺は。

 もちろん、今まで、何も考えてこなかった訳ではない。あいつに認識されるために行動を起こそうと決心したときも、想定されるあらゆるパターンへの対応策を練ってから実行に移したのだし、それ以降、あいつと接触するときも、百貨店の前で偶然見かけたとき以外は全て、同様に計画を立ててきたのだ。だから万が一の可能性として、あいつが堕天した際の対応についても、ずいぶん前から考えてはいたのだ。……しかし、本当にそれを実行することになるかもしれないとなると、……覚悟していたとはいえ、身体が重い。

 おれは、あいつが堕天しないだろうと信じていたし、それと同じ程度に、堕天しないで欲しいと願っていた。おれは、あいつの白さに憧れたのだ。人間の醜さをすべて分かった上でなお、その可能性を信じて、寄り添おうとする、あいつの魂に。それまで見てきた天使たちは、天使という役割からくる大上段に構えた愛情で人間を見ていた。だが、あいつは違う……人間の目線を知り、その上で導きたいと、本気で思っていた。それが、ひと目見たときから感じられたのだ。

 純白の魂と翼を持ったあいつに、愛されたいと願ってしまった。

 それは、俺の罪だ。だから、もしあいつが本当に堕天するのだとしたら……、その罰を、俺が引き受けるときがきたということだ。

 薄明るくなってきた窓の外を見つめながら、俺はようやく、寝台から立ち上がった。


 職場へ向かう人間の姿がちらほら見かけられる大通りを歩いて、あいつの家へ向かった。古びたアパートとアパートの間に、これまた大昔から存在しているような、細長く小さな、二階建ての一軒家だ。質素と言うべきか粗末と言うべきか分からないような外見だが、その実、中は近代的にリフォームされていて、俺が棲家とした高級マンションにも劣らず小綺麗だ。人間の形をとって、人間の中に溶け込んで仕事をする俺たちには、やはり人間にとって住みよい環境が心地良い。悪事を働く悪魔とは違い、善を推奨する天使たちが、住まいの見かけをカモフラージュするのは当然のことだろう。

 これまた古びた金属製のノッカーを使うと、中から忍びやかな物音がした。どうやら在宅らしい。暫く立って待っていると、やがて、軋んだ音を立てながら、扉が開いた。大きな、青い瞳が俺を見上げて、戸惑いを露わにした。

「どうして、お前が……」

「よう、天使サマ。失礼するよ」

 躊躇いがちに後ろへ退いた、その身体の横をすり抜けて中へ入る。相変わらず生活感のない部屋の中は、前に来たときよりも寒々しい。大きな窓の向こうに、どんよりと曇った空が見える。

「……帰ってくれ。今は、お前と話している場合ではないんだ」

「用事を片付けたら、さっさといなくなるさ」

「用事?」

 警戒するように壁際に立ったままの天使は、ひどく憔悴した顔をしていた。いつも穏やかな筈の表情には暗い影がとりつき、艶やかな唇が、今は乾ききっている。生理的な反応でしか流れない天使の涙の痕を、俺は確かにそこに見た。

「天使サマ、羽根を見せてくれ」

 俺の言葉に、天使はびくりと肩を震わせた。壁に背中を着け、視線を落として首を振る。

「……いやだ」

 まるで子どものわがままだ。俺はその細い身体を引き寄せ、抱き締めた。

「だめだ……」

 言葉とは裏腹に、天使は俺の胸に顔をうずめた。柔らかな金髪が首筋に当たる。小鳥や小動物のような身体の熱が伝わってくるが、今はそれに気を取られていられない。シャツ越しに、その背筋を辿って指を滑らせる。俺に密着した身体が小さく反応するが、構わず、浮き出た肩甲骨を数度、撫でた。

「天使サマ」

 そっと囁く。聞き分けのない子どもに、人間の親が言い聞かせる様が目に浮かぶ。ときには辛抱強さが、何にも勝る鍵となるのだ。少しの間そうしていたが、やがて天使は諦めたようにふっと身体の力を抜いた。途端、まばゆい白さの羽根が、その背中に表れる。身の丈ほどの羽根は、ふわりと、俺の脚にも触れた。

 名残惜しさを断ち切って身体を離し、その羽根を子細に観察した。ぱっと見た感じではまったく、どこをとっても美しい純白でしかないが、……しかし、黒くなる兆候が、その感覚があった。邪悪を感じる悪魔としての本能が、それを告げている。身体の奥に鉛を詰め込まれたようだ。

「……俺のせいだ」

「いや、……私が、悪いんだ。私が一瞬でも、こうなっても良いと……思ってしまったから」

 思わず、その顔を見つめてしまった。一瞬、立てていた計画の全てを脇に退けて、このままこいつを攫ってしまおうかという馬鹿げた考えが浮かぶ。しかし、そんなことをしても何の意味もない。俺が欲しいのは、白いままのこいつなのだ。そして恐らく、こいつ自身も。

「でも、今は違うだろう。お前は天使のままでい続けたいはずだ」

 天使は青ざめた顔で、ゆっくり頷いた。そうだ、それで良い。それで、俺もやっと意思を固められる。

「天使サマ、安心しな。お前は堕天使になったりしない」

「……? でも、羽根は……」

 怪訝そうな顔になるのも、もっともだ。堕天を回避する方法なんて、普通はあり得ないのだから……その原因となる対象の協力なしには。

「天使サマ、何度も言っているが、俺はお前のことが、本当に好きなんだぜ」

「……だめだ、そんなことを言わないでくれ。私は……分からなくなる。どうしたら良いのか、何が正しいのか……」

「いや、良いんだ。大丈夫なんだよ、天使サマ。これが最後だ」

 俺はもう一度、目の前の温かい身体を、そっと腕の中に抱いた。

「最後……? 何を言って」

「ありがとう、天使サマ。一瞬でも、俺を照らしてくれて」

 困惑し、俺を見上げるその瞼に、出来る限りの優しさで、口づけを落とす。一瞬、何かを悟ったように身体を引き離そうとした気配があったが、すぐに収まった。安堵したように瞳を閉じ、深い眠りに落ちた身体を抱き留めて寝室へと運び、横たえてやる。もう二度と見られない、その姿を胸に刻む。

「俺は、これまでに人間が作ってきた全ての詩を知っているんだ、天使サマ。愛をうたった詩も、別れをうたった詩も……」

 綺麗な額にかかる明るい金髪を整えてやりながら、俺は決して届かない、言葉の形をとった未練を吐く。

「でも、それら全ての詩を合わせても、お前への感情を表すのには足りない。どんな表現をしてもこの……愛を、表すことが出来ない。俺は……」

 ああ、無意味だ。こんな言葉も、こんな気持ちも、全ては無意味だ。もう、この顔を見ている意味すらない。

 規則正しい息の音を聴いているのが苦しくなって、俺はとうとうその家を出た。暗く沈んだ不快な朝の空気が、肺を冷やしていく。次に行くべき場所は、もう決まっている。そこに決めるまで、色々な候補は浮かんだが、そのどれも、己の中にある未練がましさを露呈するものばかりでうんざりした。だから最終的に、自分のそういう気持ちと、それを断ち切りたい気持ちとの両方を満たすことの出来る場所へ、行くことにしたのだった。

 辿り着いた街はずれで足を止め、俺は明るい灰色で満たされつつある空を見上げる。



 目が覚めたとき、それまでに感じたことのないほど強い痛みが、胸に走った、ような気がした。勢いよく身を起こすと、その痛みはすぐにどこかへ消えてしまった。窓の外は薄暗く、静かだ。……夜か。

 寝台に横たわった記憶などないし、ましてや「眠る」などという不要の行為を、自らしたとは思えない。しかし、頭がすっきりしていて、靄が晴れたようだ。身体も軽い……軽すぎて不安を覚える程に。肉体ではない、精神の……魂の重さが、違う……?

 いや……そんな訳の分からないことは、あり得ない。きっと、身体を酷使しすぎたのだ。それに、……そうだ、つい先日、大天使に呼ばれて堕天の話を告げられて……それで受けた衝撃のせいもあるだろう。でも、なぜだろう。もう何の心配も要らないというような気がしてならない。

 寝室を出て、キッチンに立つ。何かが噛み合わないような歯がゆさを感じながら、棚から紅茶を取り出す。ふと、見覚えのない小箱が目に留まる。開けて見ると、質の良い茶葉の袋が入っている。

「……こんなもの、買った覚えがないな……誰かに貰ったのだったか」

 人間に混じって働く中で、誰かからプレゼントされたものだったかもしれない。そういうことも、時にはある。とりあえず、またの機会に飲もうと思い、箱を閉めようとしたときに、小さなカードが入っていることに気が付く。

 取り出して見てみたが、それは完全なる白紙だった。


 再び大天使に呼ばれて参上した執務室には、大天使の他にも、噂を聞きつけて集まった、多くの仲間の天使たちが揃っていた。普段、あまり一堂に会さない天使がこうして並んでいるのを見ると、少し気後れしてしまう。

「……あの、これは」

 おずおずと声を上げると、大天使は先日とは打って変わって穏やかな微笑みを見せた。

「喜ぶが良い。お前の罪は浄化されたようだ」

「え……? それは、どういう」

「堕天の兆候が、綺麗に消えている。理由は不明だが、恐らく主の大いなる御業に違いあるまい。お前の今までの貢献が認められたのだ」

 そんなことが起こるとは思っていなかった、筈なのだが、妙な納得感があった。やはりそうかという、自分の確信の裏付けが取れたような、不思議な感覚だった。大天使をはじめとした天使たちは、私を取り囲み、笑顔で祝福してくれる。

「主の奇跡に感謝を。仲間が敵に堕ちずに済んだことに、感謝を」

「ありがとうございます」

 心の底から安心感が込み上げて来て、私は頭を下げた。これで、主の、善の道から離れずに済む。今まで通り、人間を正しい方向に導いていくことが出来る。しかし……、ついこの間まで、私はもう一つ、葛藤を抱いていたような気がしてならない。堕天使になるくらいなら大人しく粛清されようという覚悟をしていたのでは、なかったような気が。

「これからも、善を成すのだ。期待している」

 大天使の慈愛がこもった声に、私は再び頭を下げた。


 それからは、また、天使としての変わりない日々が続いた。神学校図書館に勤める司書として生活する傍ら、敬虔な信者にさえ伸びる誘惑の魔手をいち早く察知し退ける、そういう日々だ。悪魔は、どこにでも巣食う。人間の心は簡単に安易な方、より衝動的な方へと流れがちだ。そうした心の動きを熟知している悪魔たちは、少しその流れを導いてやるだけで、その魂の欠片を自分たちのものにしてしまう。それに対し、私たち天使に出来ることは、その人間の道徳心に訴えかけ、主への信仰を喚起し、見守りながら導いてやることだけだ。彼らの魂の動きに、直接関与することは出来ない。悪は速く、善は遅々としている。昔から変わらない。

「ああ、君」

 物音ひとつしない、飾り気のない神学校図書館で、私はひとりの学生を呼び止めた。十五、六歳の黒髪の少年は、素直にこちらを向く。まだあどけなさの残る可愛らしい大きな黒目が、私を見上げた。

「はい、何か」

「ここの案内を受けたことはあるかな。……実はこの図書館では、書籍を館外に持ち出すことは禁じられているんだ」

 出口に向かっていた少年は、胸に抱いたままの本に目を落とした。みるみるうちに、その頬が朱に染まっていく。

「……ああ、すみません。案内を受けたことがなくて、……知りませんでした」

 消え入りそうな声で謝罪する少年に、私は励ますように微笑んで見せる。

「知らなかったのだから、何も気にすることはないよ。それに、写しを取ることは認められているから、もし気に入った一節があるのなら、そこの机を使いなさい」

「はい……。ありがとうございます」

 少年はほっとしたように、緊張していた顔に笑みを浮かべた。おとなしく机へ向かい、いそいそとノートとペンを取り出す様子を眺めていると、何か、心がざわつくのを感じた。少年自体に何かを感じるわけではない。彼はただの人間で、ざっと見た限り、これから悪に染まっていくような気配もない。それなら、何が……。

 堕天の可能性がなくなったと告げられたあのときから、いや、その前夜に不可解な眠りから覚めたときから、耐えがたい喪失感が、胸の奥に根を張っている。私は何かを失ったのだ。何か、とても大切だったものを。けれど、それが何か分からない。遡って考えてみても、自分が何を失ったのだか、まったく思いだせない。ただ、あれから、見るもの、聞くもの、触れるもの、口にするもの、感じるもの、全てに、その何かが足りないと感じてしまう。決して埋まることのない空白が、二度と塞がることのない穴が、私を責め苛んでいる。

 ぼうっと眺めていた少年の姿を、不意に天窓から差し込んだ陽光が照らす。天使の輪とも称される輝きが、少年の黒髪に浮かび上がる。真剣に文章を追う黒い瞳が、好奇心に彩られて瞬く。黒い髪に、黒い瞳。そうだ、私の心をざわつかせるのは、その組み合わせではないか。

 はっとしたが、その天啓のような閃きは、それ以上の分析を私にもたらしてはくれなかった。差し込んだ光はまたすぐに消え、黒髪と黒い瞳の何が、私の心をここまで波立たせるのかは分からずじまいだ。細かく裁断された写真の一部をようやく手にしたは良いが、その全体像が分からない。そもそも、その写真が何を意味するのかも。ただ分かるのは、そこに写るものが、私が失った何かだということだ。

 それからというもの私は、黒髪と黒い瞳を街で見かける度に、目を凝らすようになった。単なる気のせいで済ませるには、少年を眺めていたときに走った衝撃は大きすぎた。私が失ったのは、「誰か」だ。意思を持って生きる、黒髪と黒い瞳の持ち主だ。

 しかし、神学校図書館で感じたようなインスピレーションは、それ以降、なかなか沸かなかった。職場と自宅の往復に加え、国内の巡視や報告業務に追われるうち、それどころではなくなっていったのも事実だ。もしかすると、この喪失感も、天使としての役割をまっとうしていく中で自然と解消されるのかもしれない、とも思ったし、それを期待する気持ちもあった。この感覚は、抱え続けていくには辛すぎる。身体が、そして何より魂が、何かを……「誰か」を、求め続けているのだ。

 数十年がそのまま過ぎ、私は職を変えながら、天使としての業務を果たし続けた。姿形は変えていないが、住む地域は変えた。前に住んでいた家を引き払うとき、なぜだか感じたことのない寂しさが胸をよぎったのを覚えている。特にあの寝室を思い出すと、くすぐったいような、頭がぼうっとするような、妙な感覚がある。それはそのまま幸福と……天使としてはあり得ないものだが、人間の言う快感とに、結びついているような気がする。そしてそれらが、私の失った「誰か」によってもたらされたものだという、確信も。

 人間社会はこれまで通り、大きな混乱と小さな平和とを交互に経験しながら進んでいる。科学技術の発展は産業革命時よりも微々たるもので、たいした飛躍を遂げてはいない。人間の感情や行動も、ほとんど昔から変わっていない。そして私の、彼らを理解したいという思いも変わらない。

 人間を理解したいというこの気持ちを、大天使は評価してくれたが、彼自身が人間のことを理解している訳ではない。仲間たちはあまり人間それ自体に興味を持っていないが、それをどうこう言うこともない。だが、私は「誰か」に、人間の愛について教わったことを、ぼんやりと覚えている。それを思い出したのは、つい先日、以前住んでいた街にある百貨店のショーウィンドウを覗いていたときだ。たまたま聖バレンタインの祝日が近い時期だった。その百貨店で毎年のように陳列されるバレンタインカードを目にしたとき、私は、失った「誰か」と、ここで話をしたということを思いだしたのだ。思わず辺りを見回したが、記憶を刺激されて同時に連想した喫茶店は、影も形も見当たらなかった。それも仕方のない話だろう。何せ、私が「誰か」を失って、もう一世紀近く経つのだ。街並みは変わり続け、そこここに記されていた人々の記憶も更新されていく。それを止めるすべはない。

 暗い冬が終わろうとしている。だんだん暖かくなってきた通りを歩いていると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。私は苦い飲み物は得意ではないが、コーヒーの香りは好きだ。それと同時に、ふわりと、甘い香りがした。果物の香り、芳醇な……りんごの香りだ。

『天使サマ』

 耳元で囁かれた声を、思いだした。肩に置かれた指の感覚を、頬を撫でた吐息を、冷たい身体を、燃えるような魂の炎を。

 黒髪に黒い瞳の、悪魔。

 身体の芯が、一気に熱を持ったような気がした。そうだ、私はあの男のことを忘れていたのだ。失ったのは、あの男の記憶だ。一度そう認識すると、とめどなく、あの男との記憶が溢れてきた。私の中の空白が、穴が、どんどんと満たされてゆく。

 あの男が教えてくれた、人間の感覚、その刺激と陶酔、ありあまるほどの思慕、弾んだ会話、胸の高鳴り、切なさ、苦しさ、背徳感、もっと知りたい、もっと知って欲しいという欲望、永遠を願いたくなる刹那……そして。

 会わなくてはいけない、いや、私は会いたい。あの男に。

 この後もいつも通り天使としての業務が残っていることは分かっていたが、それどころではなかった。恐らく、あの悪魔はあの夜、私の記憶を封印したのだ。自分に関する全ての記憶を封印し、それによって私の堕天を防いだ。そして、その後……自らのことも、どこかに封印したのに違いない。

 悪魔は、天使と同じく、死なない。そして、悪魔として働き続ける限り、私と遭遇する可能性はいつまでも残る。だから、不意の遭遇によって私の記憶の封印が解けないように、決して見つからないような場所に、隠れてしまったのに違いない。

 私は、あの男を見つけなくてはならない。会いたいのだ、今すぐに。

 いても立ってもいられず、私は躓きながら走り出した。



 暖かな光を夢見ている。

 陽だまりのような心地よい温もりと、月の光のような静かな明るさを放つ、その光に触れたくて、俺は手を伸ばす。もう、何度繰り返したか知れない。その光に触れそうになる度に、たまらなくなって、手を下ろしてしまう。汚れた、醜いこの手が、あんなに美しい光に届いて良い筈がない。

 俺は何だ?

 分からない。

 ここには何もない。暗闇があって、頭上に、暖かな光があって、ただそれだけだ。俺という何者かは、ひどく醜くちっぽけで、どうしようもなく、光に憧れている。憧れ、ただそれだけが、俺の意識を保たせている。

 もう随分長いこと、ここでこうして蹲っているが、きっとこの暗闇に終わりは来ない。理由も何もかも忘れてしまったが、それは分かっている。これは罰だ。俺が犯した罪への、終わることのない罰だ。決して触れ得ない光に憧れたことへの。

 ああ、暖かな光だ。羽虫が光に焦がれるように、下ろした手を、また伸ばしてしまう。決して届かない、また届いてはいけない光に、腕を伸ばしてしまう。気が狂いそうになる程に何回も繰り返し、そして何回も断念する。指先を、あとほんの僅か伸ばしさえすれば届くであろう距離まで近づけ、そして、諦める。繰り返される渇望と絶望に、俺という意識は少しずつ擦り減っていく。だが、これが罰だ。受け入れるしかない。

 もう何万回と繰り返した動作の合間に、意識の混濁が起こる。暗闇と同化するような、それは安息に似ている。憧れと安息の間で俺は絶えず揺らぎ、やがてまた、光に向かって手を伸ばすのだ。

 また、僅かな安息が終わった。再び、もうあるかも分からない魂の、その奥から湧いてくるような強い衝動に任せて、手を伸ばす。光はいつものように明るく、暖かく。

 そして、聞き覚えのある声が聞こえた。

 もう、聞くことが出来ないと思っていた声。澄んだ、全ての悪意を溶かしさってしまうような、……愛しい声。それが、光の中から聞こえてきた。言葉は分からない。けれど、それが俺を呼んでいるのだということは分かる。

 下ろしかけていた手を、伸ばした。いつも諦めていた、その最後の距離を縮めて、……俺はついに、光に触れた。


 目が覚めたとき、視界にあったのは、あの夜に諦めた、天使の顔だった。何も変わっていない。長い睫毛も、それに縁どられた大きな青い瞳も、花弁のような唇も、輝くような金髪も。

「天使サマ……なんだ、俺は……死んだのか? これは夢か……」

 悪魔が死ぬという話は聞いたことがないが、俺があのとき自分自身に掛けた封印が勝手に破れるとも思えなかった。訳が分からず、目の前の美しい顔に尋ねる。天使は泣きそうな顔になって、笑った。

「夢じゃない」

「……夢じゃ、ないのか……?」

 身を起こそうとしたが、随分長いこと、封印状態にあったらしい。身体が言うことを聞かなかった。どうやら天使の膝の上に頭を載せられているらしく、柔らかくて心地が良かった。あの、果てない暗闇には、もう戻りたくない。

 しかし、俺の封印が解かれたということは。

「天使サマ、お前……」

「ああ、記憶は全て戻った。八十年もかかったけれどな。そして、それからまた二十年ほどかけて、ようやく、お前を見つけたんだ」

 蒼天の瞳が潤み、その中に映る俺も揺れる。

「まさか、こんな……月なんかにいるとはね」

「……月は、少しずつ地球から離れているからな。俺の身体が動かなくなっても、お前から離れることが出来るだろう」

 視界には映らないが、一世紀ほど経ったのなら、地球もほんの少しだけ、遠くなっていることだろう。俺の言葉に、天使は呆れたように目を細めた。

「……全て、私のためだったんだな」

 分かり切った質問に、俺は瞬きだけで答えた。実のところ、言葉を吐くだけでもかなりきつかった。天使は、俺の頭を抱えるように抱き寄せた。柔らかくて、花のような良い匂いがする。頬に、ぽたぽたと、暖かな雫が落ちてきたのを感じた。

「……天使サマ?」

「お前を失って、分かったんだ……確信を持った。これが愛なんだ」

「…………」

 思考が停止した。あまりにも……その言葉は。

 天使は、抱き寄せた俺の額に口づけた。あまりの幸福に気を失いそうになるが、ここで気を失うと次はいつ目覚めることか分からないので、努力して意識を保つ。天使は、呆然とする俺に、にっこりと笑った。

「ありがとう。私は、お前を愛している。お前が教えてくれた感情だ。大切な……天使の愛でも、人間の愛でもない……私自身の愛だ」

「天使サマ……」

 時を止めるだけの力が、身体に残っていないのが残念でたまらない。愛しさがこみ上げてくるが、しかし、気になることがあった。さっき、天使は記憶を取り戻してから二十年も、俺を探していたと言った。

「天使サマ、それじゃあ、羽根は……」

 天使はそっと俺の頭を月面に置き、自らの羽根を広げて、見せてくれた。……信じられないことだが、そこには一片の曇りもなかった。スノーホワイト。封印が解けて二十年も経てば、俺と同じ漆黒に染まっていてもおかしくない。それなのに、インクの染みほどの汚れも、見当たらない。あのとき感じた邪悪の気配も、完全に消えている。

「そんな馬鹿な……」

「主のお恵みだろう」

 天使の可憐な声とは違う、別の男の声が答えた。天使が慌てて俺のもとへ駆け寄り、庇うように、再び頭を抱いてくれた。それで、突然現れた男の正体が知れた。大天使だ。俺のような悪魔でもその姿を知っている、神にとても近い存在。天使にしては珍しいダークブラウンの髪が、光源に乏しい月面ですら、神の威光を示して輝いている。その神聖さに、思わず顔をしかめてしまう。眩しい。

「まったく、突然、全ての仕事を投げ捨てて行方をくらますから、方々探したが……」

 大天使は、肩をすくめて俺と天使を見た。

「まあ、これで気も済んだだろう。さて、悪魔の彼が見分した通り、お前の羽根には全く問題がない。施されていた記憶の封印が解けたにも拘わらず」

「……貴方は、ご存じだったのですか」

 天使の言葉に、大天使は微笑んだ。

「地上で起きていることの大体は把握しているからね。それで、本題だ。その羽根は、一度は黒く染まりかけたものの、そこの彼によって……彼の愛によって封印された。そして、その封印を、お前はお前自身の愛によって解いた。それを、主は祝福されたのだ」

「主が……」

 天使自身も、自分の身に起こっていることの真実は分かっていなかったのだろう。大きな目を見開いて、呟いた。大天使はゆっくりと頷く。

「そうだ。何せお前は、長い天界の歴史の中でも初めての……自らの愛を、獲得したのだから」

「それでは……それでは、私は、堕天もせず、この男と……」

「ああ、一緒にいても大丈夫だろう。ただし、お前が天使であること自体は変わらないのだから、これからも善を成さなくてはならないがね」

 言いながら、大天使は近づいて来る。敵意がないのは明らかだが、個人的に契約を交わした訳でもない天使に近づかれるのは危険だ。

 俺の焦りに気が付き、天使は大天使の歩みを制した。

「ああ、そうか。力の大半を消耗しているようだから忘れかけていたが、彼は悪魔だったな。無神経で済まないね。ただ、お前たちを祝福してやりたかったのだ」

 悪魔である俺をも祝福したがるとは、天使の中にも結構変わり者はいるのだな、などと思っていると、天使が、俺を支えながら立ち上がった。細い腕のどこにそんな力があるのだろう、とぼんやり思うが、さっきから幸福が度を過ぎていて、まともに思考が出来ない。どうも、過ぎた幸せは、悪魔に麻薬のように作用するらしい。俺は天使の肩に凭れて、その決然とした横顔を眺めるばかりだ。

「私の個人的な愛情に、貴方の祝福は不要です。お気持ちだけ、いただいておきます」

 そう言い切って、天使は俺を軽く抱きかかえ、大天使に背を向けた。

「どこへ?」

「お互いの愛を確かめられる、もっと静かな場所へ」


 暗い宇宙空間から、久しぶりの青い星に帰り着くまでの間、俺は幸福に痺れた頭で、天使の体温を感じていた。これが夢でないということが、信じられない。しかも、それが、これからずっと続くというのだから。

「なあ、天使サマ」

 呼びかけると、その瞳が俺を捉える。それだけのことで胸が苦しくなり、何を言おうとしていたのかも分からなくなりそうだ。

「……本当に良いのか、俺といて。俺は悪魔なんだぜ。封印が解かれたからには、また復帰して、悪事を働いて人間を誘惑する。そういう風に出来ているんだ」

 天使は不思議そうに首を傾げた。

「そんなことか。これまでと変わりないだろう。お前が悪事を働くなら、私が善を成す。それだけだ。……お前は、私のことを好きだったんじゃないのか」

「そりゃ、好きだがな……でも」

 俺が口ごもると、天使はふふっと笑った。

「また堕天しないか心配なのか? 大丈夫だよ。私たちには、主のご加護があるんだ」

 地球は、美しい月夜だった。誰もいない、波の音だけが響く浜辺に降り立ち、天使は俺をそっと立たせた。まだふらつくが、何とか自分の力で立っていられそうだ。こうしてまた向かい合える日が来るなんて、思っても見なかった。

 天使は、まっすぐ俺を見上げた。

「お前から貰った紅茶を、ずっととってあるんだが、流石に飲めそうもない。……また新しいのを、一緒に選んでくれないか」

 月の光を湛えた、青く静かな鏡面を覗き込む。その中に、馬鹿みたいに幸せそうな男が映っているのを、確認する。男は笑って、口を開く。

「ああ、もちろん。天使サマのお望みとあらば」

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