1.突発的遭遇


 人通りの少ない裏口を抜け、慣れた足取りで教室へ向かう。裏門、という程豪勢ではないので裏口だ。正門は片手でも余る程しか通ったことがない。裏口から入った方が近く、ましてや正門は人が多すぎる。あまり目立つなと学園から暗に言われているため、結局こちらを使っている。

 木々に囲まれた校舎は、離れると見えなくなるだろう。それほどに小さく、また自然に溢れている。

「おはよう」

 毎日飽きずに校舎前で待つその人に、今日も変わらず声をかけられる。

「はよ、カリレおじさん」

「『おはようございます、先生』だ」

「いてっ」

 頭を小突く彼の名はカリレ・ロイツェ。ハロル専属の教師であり、ハロルの母の兄……つまりは伯父にあたる人物だ。

 ハロルは背が低いため、基本的に声が上から聞こえる。カリレもその一人で、優しく理知的な教師らしい声がする。

 二人とも黒髪黒目で地味な印象だが、顔立ちは若々しく整っている。カリレは実年齢より十歳も若く見られることがあるくらいだ。ハロルは黒に金の刺繍が施された目隠しをしているため目元は見えないが、彫りの深い綺麗な顔をしている。青年というより少年という方がしっくりくる。

「一応教師と生徒なんだぞ」

「でも誰も見てないじゃん」

「それはそうだけどな……」

 人通りの少ないと前述したが、少ないどころではない。ハロルとカリレ以外はほぼ通らないのだ。一般の生徒であれば、この裏口の存在を知らないまま卒業していく者も多くいるだろう。教師もごくたまにしか使わない。

 旧校舎の端も端、現校舎とは繋がってすらいない場所にある。ほぼ物置とされているその校舎に、幽閉されるかのように入れられている。

 色彩創成魔法はゼロからプラスを生み出す能力であり、とにかく物が増えやすい。学園という教育機関でもあるので、とにかく試しては捨てを繰り返していることもあり、旧校舎はそれの行き着く先となっていた。ごくたまにここを使う教師というのは、現校舎で溜まった制作物を置きに来る人のことである。

「一年経っても慣れないんだよなー、先生って呼ぶの」

「俺もだけどな。教員よりもお前の伯父やってる時間の方が長いし」

 ハロルが学園に入学してもう一年が経っている。二年目に突入しても特に授業内容も担任も変わらないため、いまいち実感が湧かなかった。

 この学園の正式名称は『色彩造形魔法専門学園』。そこの高等部に通っている。世界で一番初めにできた魔法の専門学校で、由緒正しいところらしい。長い歴史を持つ学園のため、曖昧な記録が多く、分からないことがままあった。

 何故魔法が使えないハロルがこの学園に通っているかというと、魔力の抑え方を学ぶためだ。膨大な魔力を持ちながら、それに吸い取られたかのように視力が無いハロルは、天使にも悪魔にもなり得た。光を認識できない彼に、たった一つ選べる色は『黒』だけだ。

 黒だけは色彩造形魔法の中でも異端である。他の色はゼロをプラスにできるが、黒だけはプラスをマイナスに、つまり物体を消し去ることができる。黒の魔法は扱いが困難で、使いこなせる人はあまりいない。

 危険かつ難しい能力のことを何も知らないまま野放しにしておくのは、ハロルやその周りの人々にも被害が及ぶ可能性があると述べ、学園側からハロルを入学させたいと声をかけてきた。

「それでも、お前は俺の生徒だし、お偉いさんが来た時にその呼び方が出たらまずいからな」

「お偉いさんって、そんな人来んのかよ?」

「……今のところ予定は、ない」

「ほらな」

「でも! 式典とかはあるからな! そういう時だ!」

「はいはい、センセ」

 少し愚直すぎるカリレに苦笑しながら、ハロルは返事をした。カリレは裏表が無い。ハロルも比較的素直な人だ。平民であることが影響しているのか、田舎育ちの朗らかな面がそうさせているのか、ロイツェ家は正直な人が多い。ハロルにはそれが心地良かった。貴族の上辺だけの付き合いはあまり得意ではない。

 そもそも、ハロルは貴族自体が嫌いだった。下級貴族の父は、息子が跡継ぎとして使えないと判断した途端別の女を孕ませ、息子とまだ母になったばかりの妻を置いて、家を出て行った。父は便利な駒となる跡継ぎさえできれば誰だって良かったのだ。手のかかる盲目の少年に用は無かった。

 ハロルの父は安い平民の女を次々に手篭めにし、とにかく子どもを産ませようとした。貴族の家系に平民が交ざったと知られるとまずいので、出産後に妻は死んだことにでもするつもりだったのだろう。母もその一人という訳だ。

 母、ミラル・ロイツェは慈悲深く、芯の強い人だ。父はミラルの慈悲に漬け込み、騙したのだろう。そんな奴のことをロイツェの者は誰一人許さなかったが、彼は巧みに姿を消した。もう顔も見たくないという思いと、報復したいという思いがせめぎ合ったが、十六年も経った今、その話を掘り返す者はいない。ミラルもハロルも、逞しく幸せに暮らしている。それで充分であった。

「で、今日の授業は?」

「歴史だ」

「またかよー! 歴史終わんねぇー! 長すぎ!」

「我慢しろ」

 ハロルが住む国、コードレ王国には約六千年の歴史がある。物が残りやすい魔法のせいもあってか記録も多く、歴史書は厚くなるばかりだ。ハロルは中等部に通っておらず、その分の授業も行うので相当な時間を要した。

 物事を理論的に考えることが得意なハロルには、歴史を学ぶことがひどく退屈であった。眠い目を擦りながら、ギリギリで受けている。一対一の授業なので、眠ればすぐに気づかれるのも難点だ。

「ほら、行くぞ」

 カリレはハロルの肩を叩いた。ハロルはそれに対応するように、カリレの腕を掴んだ。もう慣れた道にも関わらず、カリレは甲斐甲斐しく誘導をする。決してハロルを甘く見ている訳ではなく、癖になっているからだ。また、ハロルにとって兄のような存在でもあるため、安心できるというのもあるだろう。

 ハロルは本日も杖をつきながら、一歩を踏み出した。




 今日も変わらず授業が行われた。他の教科も学んだはずだが、歴史の分量が多すぎてそればかりやっている気がした。

 帰り道はカリレと共に歩くことになっている。通学時は朝早く、道路に人も少ないため一人で来ているが、夕方は仕事帰りの人や夕飯の買い出しの人が多く歩いているので一緒に帰ることになった。

 元よりカリレは学園からハロルをよく見ておけと頼まれており、登下校も共にするのが望ましいと言われている。しかし、カリレも教師の仕事があるので、それは流石に難しいのだ。

「カリレおじさん、今日夕飯食べて行きなよ」

「お、良いのか?」

 学校の門を潜れば、親戚の関係になっても良いという理屈の下、学外ではおじさんと呼ぶことにしている。

「母さんが張り切ってたぞ」

「それは楽しみだ」

 歩き慣れた道を進めば、人集りができていることにカリレは気がついた。中心には一人の男が居る。カリレはその人を知っていた。

「アルダムくんだ……」

「アルダム? 誰だそれ」

「あぁ、ハロルは知らないか。リベルダ・アルダム、お前と同い年だ。成績優秀で魔力も想像も申し分無い。学年一位なんてざらにある。この前の学内対抗戦も一位だった。しかもイケメンで侯爵家の次男だ。持ってないものが見当たらないようなやつだよ」

 紺青の髪をした端正な顔立ちの青年だ。正統派イケメン、とでも言うべきか、絵に描いた王子様のような見目である。甘い声と少し強引な行動に惹かれる者が多く、常に周りに人が絶えない。

 今は転んでしまった女の子を助け、その母親に感謝を伝えられる内に人が集まり、話に尾ひれが付き始めたところだ。とにかく噂を呼びやすい人である。

 カリレはリベルダに気が付きながらも、声をかけるつもりはなく、そそくさと歩みを進めた。もし声をかけられたとしても、リベルダはカリレのことを知らないだろう。入学式にも始業式にも出席したが、特に目立った接触がある訳ではない。担当でもない教師など一々覚えていられない。

「へぇ、そんな奴現実に居んのか」

「俺も思ったよ。非の打ち所が無いってこういうことを言うんだな」

「あぁ。……まぁ、戦闘だけで言うなら俺の方が強いけどな」

 ハロルは軽々とそんなことを言ってのけた。これは自信過剰などではない。本当に彼は強い。

 カリレはそれを知っているから事実だと分かるが、学園の王子様はお気に召さなかったらしい。

「ほう? 面白いことを言うな」

 リベルダがこちらへ来ながら、そう言ってきた。それなりに距離があったように思うが、地獄耳なのか、自分の名前に敏感なのか、とにかく聞こえたようだ。

 カリレは背筋が凍った。目の前に立たれると案外大きい人だと分かる。カリレは平均身長ど真ん中だが、それよりも大きい。ゴツイ、とまでは行かないが、肩幅もしっかりしている。何よりもオーラがあった。人とは違う輝きを持つ、カリスマ性のある姿だ。学園の制服である長めのコートを腕を通さず肩にかけているのがそう思わせるのだろうか。

 ハロルは高いところから声が聞こえたため、顔を上に向けた。

「アルダムくん!?」

「先生、こちらの生徒は?」

 教師だと知られていることにも、意外と礼儀正しいことにも驚いた。そしてカリレが驚いた隙に、ハロルが応えてしまう。

「ハロル・ロイツェだ。お前がリベルダ・アルダム?」

 リベルダはあぁ、と頷きながら続けた。

「へぇ、君があの? ここの生徒だったとは知らなかったな」

「あの……? そうか、一応有名人なんだっけか」

「は、ハロル……」

 カリレが、あんまり問題を起こさないでくれ、と念じるように訴えると、ハロルは笑ってみせた。おそらく、カリレの叫びは全く伝わっていない。

「そうだよ。俺があのハロルだ。覚えられているとは光栄だな」

「人伝に聞いただけだ。俺と同じ年代に凄い奴が居るってな」

「それで? お前も目がこれだって知って落胆したか?」

 挑発するような瞳で……正確には目隠しだが、それでもリベルダの考えを見透かしたように言った。

 ハロルは元より人をからかってばかりいるタイプだ。口が達者で厄介。カリレも振り回されてばかりで、困らされることが多い。子どもらしくもあり、何処か投げやりな部分もある。

「そんなこと……」

「そんなことないって? 同情なら要らねぇよ。それより、お前強いんだって?」

「っ……あぁ、自分で言うのもなんだが、強い」

 リベルダは何かを言いかけたが、ハロルが話題を戻したのでこれ以上話題に出すのはやめた。そして悪びれもなく、自らの強さを口に出した。これもまた、自信過剰などではない。

「学内対抗戦一位らしいけど、そこに俺は入ってない。俺がいたら変わってたかもしれないぜ?」

 ハロルの成績は別枠として扱われている。中等部の授業が足されたり、絵画の実技科目が引かれたりしているため、カリキュラム自体が大きく異なる。それを同等として順位に加えることは当然のことながら難しい。

「俺より強いって言うのか? 魔法無しで?」

「あぁ。魔法なんて邪魔になるだけだ。想像よりも理論。確実な方が強い」

 リベルダには何故かそれが魅力的な響きに聞こえた。誰よりも上手く使いこなしてきた魔法を裏切る発言に、本来なら怒っても良いはずだ。もちろん怒りが無い訳ではない。だが、面白いものを見れる予感がした。

 ハロルはニヤリと笑う。とても身長差のある二人だが、両者一歩も譲らず向き合った。

「じゃ、やるか?」

「あぁ」

「ストップだ! 黙って見ていれば、教師の目の前で喧嘩か!?」

「あっ、ごめんおじさん、途中から忘れてた」

「だろうな!」

「すみません、先生」

「はいはい! とにかくここじゃ駄目だ、目立ちすぎる。学校戻るぞ!」

 半分ヤケになったカリレが真っ先に来た道を引き返すのを、二人は追いかけた。




「学内対抗戦とルールは同じで良いか?」

 カリレに連れられ、学園の裏口まで戻って来た。そして校舎前の少し広い場所、ハロルが体育等で使っているちょっとしたスペースで、いそいそと準備を始めた。始めるのが戦闘準備、というのはカリレとしては気が気でないが、流石に大怪我はやめてくれと鬱陶しい程伝えたので問題ないと信じたい。

「あぁ」

 ハロルは応えた。学内対抗戦にハロルが出たことは無いが、その存在やルールはカリレと話す内に知っていった。

 学内対抗戦とは、学園が用意した訓練のためのトーナメント戦である。魔法を使ったスポーツの一環として、今ではほぼ全ての学校で行われる行事だ。ルールは至ってシンプル。相手の背を地面に着けさせた方が勝ちだ。他にも細かいルールがあるにはあるが、基本的にはそれだけである。

「準備できたか?」

「もちろん。あ、場所だけ確認しても良いか?」

 そう言って、ハロルはリベルダに近づいた。

「あぁ。…………っ!?」

 ハロルの身長の低さを再確認し、目のことも考慮して少し手加減でもしようかと思った矢先。そんな思いはすぐさま砕かれた。


 リベルダは気がつけば、太陽を見つめていた。

 距離感が掴めないためリベルダに触れたハロルは、不意に動きを変えた。目にも留まらぬ速さで鳩尾を捉え、それほど力の入っていない手で打ち抜いた。

 的確で精密。見えていたとしても不可能なそれは、驚愕に容易かった。何度か見たことのあるカリレでさえ、新鮮に驚く。

「勝負ありだ。変わってないな、ハロル」

「だな! 久々でも意外といけた」

 ハロルはカリレににぱっと笑顔を見せた。先程のギラついた表情とは異なり、純真な子どもの顔だ。

 ハロルが戦う相手はそれほど居ない。昔はカリレも付き合わされていたが、歳だから嫌だと断られることも増えた。もう一人、ハロルに戦闘技術を教えた師匠が居るが、彼も最近は来てくれない。

「で、どうだ? 俺を見上げる気分は」

 リベルダの頭上ギリギリに杖をつき、地面に転がった胴体を挟むように両足を立て、ハロルは笑った。ぐぐ、と杖を支柱に背を伸ばし、余裕綽々といった様子だ。

 一方のリベルダは呆然とハロルの顔を眺めていた。

「驚いて声も出ないか?」

「…………すごい」

 ポツリと呟いたのを皮切りに、リベルダは振り切れたように起き上がった。いきなり胴体を起こされたハロルは咄嗟に右足を上げ、左に避けた。

「すごい、素晴らしいぞハロル・ロイツェ! 今の、どうやったんだ!?」

「お、おう……?」

「こんなに強いやつ初めてだ! 手も足も出なかった!」

「なんか思ってたのと違うな……」

 普通であれば、負け惜しみを言ったり、ハロルがいきなり奇襲を仕掛けたことについて文句を言うはずだ。もしそれで再戦を挑まれたとしても、勝利を収めるつもりであった。しかし、その必要も無いらしい。

「ハロル・ロイツェ! その技巧、俺に教えてくれ!」

 教えを乞いながら、何故か偉そうなリベルダの態度にハロルは焦った。

「おじさん……」

「先生な。何だ?」

「俺、コイツ苦手かも…………」

「諦めろ」

 先に挑発したのはハロルだ。自分で撒いた種だと、教師らしく正論を言い渡され、ハロルは途方に暮れた。




「おーじーさーん! コイツなんとかしてくれ!」

 翌日、ハロルは壁を引き連れてやって来た。

 否、壁というのは、リベルダのことである。何時から待ち構えていたのか、何処でハロルの通学路を知ったのか、色々と分からないが、何故か居た。

「アルダムくん……!? どうしてこんなところに」

「ハロル・ロイツェに聞きたいことが山ほどあるんです。なので着いて来ました」

「朝からずっとこうなんだよ!」

「教えてやれば良いじゃん」

「嫌だ! 絶対教えてたまるか!」

 ハロルがそう言う間に、リベルダは距離を縮めた。先程から、隙あらばハロルに触れようとしているのだ。だが、ハロルにことごとく逃げられている。今回も然りだ。

「そもそもお前強いんだろ!? 俺が居なきゃ一位なんだから良いじゃねぇか!」

「だからこそだ。俺よりも強い奴が居るなら倒さなければ」

「なら俺に教わるのはおかしいだろ!」

「自分より強い人に教わるのは当然だろう」

「うっ……」

 ハロルとリベルダには似た感覚があった。自分は強いと自信を持って言える二人であり、世の中に中々居ない二人だ。自分よりも強いと感じる人が居ると、とびきり懐く。その自覚がハロルにはある。なのでリベルダを置いて行くほど、無慈悲になれなかったのだ。

「じゃあこうしよう」

 カリレが声を上げた。

「ハロル、朝はアルダムくんに送ってもらえ」

「はぁ!?」

「アルダムくんはその間に好きなだけ奇襲でもかければ良い。そこから好きなだけ技術を盗め」

「勝手に……!」

 ハロルの抵抗を受け流しながら、カリレは続けた。こういうところは大人な冷静さを持っている。

「お前、自分がどういう存在か分かってるか?」

 ハロルは何度か誘拐されそうになったことがある。膨大な魔力は人の興味を惹き付ける。純粋な好奇心で寄ってくる研究員や、よからぬ事を考える輩まで、様々な人が彼を探し求めていた。政府からも調査という名の人体実験に何度も誘われているのだ。その度、母を筆頭としたロイツェの人たちが断ってくれている。

 つまり、ハロルは金の卵なのだ。なので身を守る術として、護身術を覚えた。最早護身術の域を超えているが、それは一度置いておく。

「お前の強さは分かってるよ。でもな、やっぱり心配なんだ」

 ハロルの目が見えないからでも、魔力が多いからでもない。大切な弟のような子が狙われているのなら、守りたいと思う。カリレはただそう願っていた。

「なんなんだよもう……」

 ハロルはぐしゃぐしゃと頭を搔いた。大切に扱われているのが、なんとなく気恥しい。

 その間にカリレは話を進める。カリレはリベルダに怖気付いていないことに、自分自身で驚いていた。教師という立場上、怖がってばかりもいられないというのもあるが、ハロルに友人を作ってやりたい気持ちもあった。

 ハロルの周りには同年代が少ない。ロイツェ家の人たちは街から外れた土地に住んでおり、高齢の者とばかり暮らしてきた。そして学内には友人どころか知り合いも居ない。

 目立つな、という学校からの制約に背く可能性はあるが、ハロルだって学生の一人なのだから、友人と登校するくらい許してくれるだろう。もし注意を受けたら、頭を下げるくらいいくらでもしよう。カリレはただ真っ直ぐにそう考えた。

 それに、リベルダと居るハロルはなんだか楽しそうだ。友になる理由としては、充分すぎる。

「アルダムくん、ここから現校舎までちょっと遠いけど良いか?」

「構いません」

「構うわ! まだ良いとは言ってないぞ!」

「じゃあ駄目なのか?」

 う、と声を漏らし、ハロルは俯いた。普段から堂々と喋る彼らしくない、ボソボソとした喋りで言った。

「…………じゃ……い」

「聞こえないぞ」

「駄目じゃない! これで良いか!?」

「あぁ。だそうだ、アルダムくん」

「ありがとうございます、先生! ハロル・ロイツェ、よろしく頼むぞ!」

「はいはい。分かったよ、リベルダ・アルダム」

 ハロルがそう言うと、タイミングを見計らったかのように予鈴が鳴った。旧校舎の鐘は鳴らないが、現校舎からギリギリ聞こえる音で生活できている。

「予鈴だ。悪い、引き止めたな。間に合わなかったら俺の名前を出してくれ」

「いいえ、大丈夫です。これで行きますから」

 リベルダはパレットを取り出した。この世界の主な魔道具である。色彩造形魔法は場にその色が無ければ利用できない。なので、魔法が使える者はほぼパレットを持ち歩いている。学校からの支給もあるはずだが、リベルダが持っているのは高級そうな黒ベースの光沢を帯びた、個人専用の物であった。

 パレットから付属の筆で色を取る。取った色は青だ。そうして彼は一度瞳を閉じ、眼前に続く森へと筆で一本の線を引き、また瞳を開く。

「色彩造形〝青〟」

 想像にはとてつもない力が秘められている。それはいつまでも明かされることのない未知の領域。土地を無限に広げる未知は、人間の一生では到底追いつけはしない。しかし、その一端に触れることはできる。それが色彩造形魔法の根源だ。

 六千年もの歴史は風化した部分もあり、諸説は免れないが、基本的に何処の歴史書にもそんなことが書いてある。何かを生み出すエネルギーを具現化した、そんな魔法だ。

 リベルダの先には、細い道ができていた。水の道だ。そして足には薄く水の膜が張られていた。

「ハロル・ロイツェ、明日も待ってるからな!」

 ハロルに高らかに告げ、カリレに会釈をして、リベルダは水の道を滑って行った。

 リベルダが学園一と言われる所以はこれだ。水を出せる人は多くいる。青の魔法で一番に行われる授業は水を生み出すことだ。だが、水のイメージは流れるもの、掴めないものである。手から流れ出てしまい、重力に従って滑り落ちるのが基本だ。

 それを掴めるようにしたのがリベルダである。液体である水を固体として持つことができるのだ。ジェル状の水分を生み出せる人は居るが、それは薬学の知識が含まれる、純粋な水ではないものだ。そんな中リベルダは水を持つ、というイメージを完璧に成し遂げ、この世に生み出した。

 カリレは人並みに魔力があり、魔法もそこそこだ。水自体は出せるが、ぽたぽたと垂れるばかりである。リベルダの流れるような手先に感動を覚えていた。

 一方のハロルはというと。

「……涼しい」

 リベルダの居なくなった場所を向き、水気を帯びた風を浴びながら、そう言った。

 貴族嫌いで魔法にも関心がないハロルにしては好感触だと、カリレは思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る