第2話 船橋の歴史

 ワタシは小説の舞台を船橋にしようと決めた。恋人の卓也と住んでいるってこともある。

 アパートは2人住まいにしては狭く、リビングの壁に黒カビが生え始めた。卓也は消費者生活センターに仲介に入ってもらって、アパートの管理会社から無料で修理してもらった。


 学芸員の金松さんって人にいろいろ教えてもらった。

 船橋の市名は直接には、市成立以前の船橋町にちなむ。船橋の地名の起源については諸説あるが、伝説では日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている。市内を流れる海老川に船を並べ、その上に板を渡し橋を造った。そのような船で造られた橋のことを「船橋」ということから船橋となった、というのが最も有力な説である。海老川はかつて現在よりも水量、川幅があったとされ、現在は陸地であるが夏見干潟と呼ばれる大きな入り江があり、港として栄えていたという。

船橋という地名が世間で用いられるようになったのは鎌倉時代とされており、同時代の歴史書「吾妻鏡」に「船橋」という地名が出てくる。


 海老ヶ作遺跡や高根木戸貝塚など規模の大きな貝塚が発見されていることから、縄文時代からかなり大きな集落が存在していたと思われる。


 平安時代中期の『日本三代実録』に「下総の国意富比神」とみえる。この意富比(おおい)神社が船橋大神宮の前身とされる。


 中世には海老川河口の港として交通の要地となり、また意富比神社の門前には市が立って大変な賑わいを見せた。


 近世には房総往還・御成街道・佐倉街道などの主要街道沿いの地域は間の宿として栄えた。特に、成田山信仰が盛んとなると、成田山への参拝客の休憩地として一層発展した。


 近代になると、川端康成の書いた小説に『船橋は兵隊の町』と書かれている通り、間の宿に代わり、軍都習志野の近郊都市として、兵隊・軍属相手の産業が発達した。また、都市部では、東京の近郊都市として近代化が進み、電気・通信・交通・医療などの各方面のインフラが整備され、花輪や宮本などの海岸部には高級別荘地として山崎別荘が造成された。


 敗戦直後、戦災を免れた上に物資の集散地だったことから、闇市が隆盛を極め、「日本の上海」という異名をつけられたこともある。


 戦時中から東京方面の軍事工場が疎開していたが、戦後の経済成長の中で、海岸部埋立地には京葉工業地帯が成立した。

 市制施行は千葉、銚子、市川に続く4番目であった。

 1960年完成の公団住宅前原団地の建設を契機に、内陸部には多くの住宅団地が開発され、東京のベッドタウンとして人口が増加した。


 ワタシは船橋図書館で武田信吉について調べていた。読書スペースもコロナの影響で人が少なかった。ワタシは大河ドラマが好きだが、やっぱり戦国時代が舞台の作品が面白い。明智光秀(長谷川博己)の『麒麟がくる』や、真田幸村(堺雅人)の『真田丸』などだ。


 信吉は、天正11年(1583年)9月3日、徳川家康の五男として浜松で生まれる。幼名は福松丸。母は甲斐武田氏家臣・秋山虎泰[注釈 2]の娘・於都摩(下山殿・妙真院)。なお、秋山氏は甲斐武田氏の支流である。穴山信嘉(信邦、信君の弟)の妻であったとの説もある。


 天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲州征伐に際して、甲斐河内領主の穴山信君(梅雪)は織田・徳川方に臣従する。同年6月の本能寺の変に際して信君は上方で横死し、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱では穴山衆は家康に帰属した。穴山氏は信君と正室・見性院の子である勝千代(武田信治)が当主となるが、天正15年(1587年)に16歳で死去したため、穴山武田家は断絶する。


 信君は織田・徳川方に臣従する際に、武田家臣・秋山氏の娘である於都摩の方(下山殿)を養女として家康に差し出しており、於都摩の方は家康の側室となる。家康と於都摩の方の間には五男・福松丸(万千代丸)が生まれる。万千代は見性院が後見人となり、武田氏の名跡を継承させ、甲斐河内領のほか、江尻領・駿河山西・河東須津を支配させ、元服して武田七郎信吉と名乗らせた。ただし、家康が駿府城に移ったことで駿河国が徳川氏の本国となり、その関係で信吉の武田氏継承時に江尻領などは没収されたとする説もある。


 天正18年(1590年)2月から7月の小田原征伐後、同年には家康の関東移封に従って下総国小金城3万石へ移る。信吉は松平姓に復し、松平信吉と改名する。豊臣秀吉の正室・高台院の甥である木下勝俊の娘を娶ったため、家康から秀吉への配慮もあり、信吉に領地を増やした。


 翌天正19年(1591年)、母が死去したため、見性院が信吉の養母となった。文禄2年(1593年)に下総国佐倉城10万石を与えられる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、江戸城西ノ丸にあって留守居役を務めた。


 慶長7年(1602年)、先の合戦で西軍に属した疑いをもたれた佐竹氏に替わり、その領地であった常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。


 慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。死因は湿瘡(痒みなどが激しく長く続くと死にいたる病)。子女もいなかったので、これにより武田氏は再び断絶した。なお、信吉に女子があるとの説があるが、もう一人の松平(藤井)信吉との混同の可能性が高い。


 水戸藩は異母弟の頼将(のちの頼宣)が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕えることになる。墓所は茨城県那珂市瓜連にある常福寺。法名は浄巌院殿英誉善香崇厳。後に甥にあたる徳川光圀により、瑞龍山に葬られた。


 妙な気配がしたので、本を閉じてそちらを見た。

 だが、誰もいなかった。

 薄気味悪い、幽霊でもいるのだろうか?

 

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