秒速二百四十キロメートルの願い

永久凍土

when I wish for a star.

 真円に近い漆黒のホリゾントが視界を覆う。

 中心辺りに横たわる暗雲、その隙間から覗くのはアジア諸国の都市の灯りだ。

 新世紀を間近に控えた冬—— と言っても、ここに季節感は皆無である。

 ほんの一瞬、一筋の尾を引く煌めき。


「あ、見えたかも。こうシューっと」

「えっ、それ本当?」


 全長九万六千キロメートルに及ぶ軌道エレベーター、又の名を「天上の梯子スカラ」。

 その高度三万六千キロメートルに位置する宇宙ステーション「ヘリオトロープ」。五百を超える六角柱型居住ユニットを連結して造られた巨大生活圏である。

 つまり、わたし達は静止軌道上から地球を見下ろしている—— だが、現時刻のヘリオトロープは地上と同じ深夜帯、夜側の影にすっぽりと入ってしまっている。

 地球そのものは星空を丸く切り抜いた巨大な穴にしか見えない。


「真ん中からちょい斜め右下、シンガポール辺りかな」

「最近すっかり見れないと聞いたけど。獅子座流星群」


 ヘリオトロープE23区間の地球側展望室。

 まるで水族館の大水槽のような窓。覗き込むとヘリオトロープを貫くリボン状の梯子、積層CNTカーボンナノチューブで編まれた人類史上最長の構造物が、静かにその巨影を垂らしている。

 梯子の下端はモルディブ諸島近海のメガフロートに達するが、勿論これも見えない。


 今、わたし達が観測しているのは、地球に落ち往く流星の姿だ。

 外部カメラを使ってモニタリングすれば容易い。だが、肉眼での観測需要に応えた光学望遠鏡を備えるのは、ここE23展望室だけである。


「ノゾミ、はいこれ」

「ありがとう、ザーリャ」


 望遠鏡を覗くわたしに彼女が手渡したのは、展望室が無償提供するドリンクのボトル。わたしは甘いカフェオレ。握ると少し熱い。ザーリャは多分ブラックコーヒー。

 彼女がホットを選んだのは、展望室の空調が効き過ぎて肌寒いからだろう。研究室ラボに出勤しないオフのわたし達は、羽目を外そうと薄着を選んだからだ。

 E21、22と続くアミューズメント区画を遊び歩いて、最後の辿り付いたのが展望室。今は夜の地球観測のため灯りは落とされ、小さな間接照明だけなので薄暗い。

 時間が遅いので他に人はなく、有り難いことに二台しかない望遠鏡を独占できた。


「わたし、ブラックは苦手。ザーリャは好きなの?」

「スイーツの味が分からなくなるから。慣れれば悪くないわ、ノゾミ」


 背が高くてウェービィなブロンド、細面の顔が実年齢より大人びて見える。

 童顔に眼鏡、チビのわたしとは大違い。

 ただ真っ直ぐなだけの黒髪をザーリャは気に入っているようだけど。


「子どもっぽいと思われてるんじゃないかって」

「ここは偏屈な人が多いから、舐められないように背伸びしてるの」


 わたしが戯けて言うと、ザーリャも調子を合わせる。


「へえ、それザーリャには要らないと思うけど?」

「ノゾミ、それどういう意味? ふふ」


 この展望室は最近追加された居住ユニットで、先の望遠鏡とドリンクバー、シートベルトが付いたベンチくらいしかない。真新しい内装パネルには接着剤の匂いが残っている。

 二人っきりの展望室。ガランとした六角断面の居住空間に、声だけが僅かに反響する。


 わたし達はあと何回、お互いの名前を呼び合えるのだろう。


 ザーリャと出会ったのは三ヶ月前だ。

 ヘリオトロープには、統合宇宙開発事業団の他に様々な国の研究機関アカデミーが入っていて、わたし達は各々の機関から派遣された研究員である。

 わたしは創薬標的タンパク質の構造解析、ザーリャはX線やガンマ線など宇宙線の研究。全く関わりがなかったが、今日と同じくオフの日にE18区画スポーツジムで知り合った。

 だが、ザーリャの母国は周辺国との政治的緊張を理由に帰国命令を下してしまう。せっかく打ち解けたのに、彼女は明後日にヘリオトロープを去らねばならない。


 きっと、また会えるよ—— と、ザーリャは言うけれど。





 流星—— 様々な小天体が秒速数十キロメートルの速度で大気圏に突入後、上層大気の分子と衝突してプラズマ化、激しく発光しながら地表に降り注ぐ現象のこと。

 小天体の大きさは、彗星が残すコンマ一ミリ以下の宇宙塵から数センチの小石サイズと小さく、大抵の流星は高度一百キロメートル程度から光り始め、五十キロメートル辺りで消滅する。

 ごく稀に大きさによって燃え尽きず、隕石として地上に達する場合もある。

 因みにヘリオトロープは、強固なデブリシールドと監視システムのお陰で心配は要らない。


「こうもアッと言う間だと、三回も願いごとを唱えるなんてできないなあ」

「いい方法があるわ。メモアプリに繰り返し三つ書いて、「絵」で覚えて思い浮かべる」


 ザーリャは宙に人差し指で文字をえがく。

 辺りが暗い上にわたしに向いているので、何を書いたか分からない。


「あはは、そんなのでいいの?」


 初めて会った時から、ザーリャは素っ頓狂な話をする。

 近寄り難かった第一印象とは程遠い、少し大雑把だがユニークで明るい人柄。

 わたしの単調な研究生活に色が付いたのは、偏に彼女のお陰と言えた。


「よぉし、私も見つけるぞ」

 

 意気込んで、望遠鏡を覗くザーリャ。

 わたしはカフェオレのストローを伸ばして口を付ける。甘さは控えめ。

 ほどなくして、彼女は弾んだ声を上げた。


「あっ、見えた、ほら右上」

「えっ、どこどこどこ?」


 当然ながら、言われた後に望遠鏡を覗いても間に合わない。

 流星観測に焦ったさを感じていると、不意にザーリャは話題を変える。


「知ってる? 私達の‪地球は常に自転していて、メガフロートがある赤道付近の速度はだいたい時速一千七百キロメートル。太陽を公転する地球の速度は時速およそ十万八千キロメートル……」


 彼女は得意げに桁が大きい数字を並べ始める。

 まるで頭の天辺から湧き出るかのような歯切れ良いソプラノ。

 ザーリャのプレゼンはこんな感じなのだろうか—— と、再び望遠鏡から目を離して、その言い様に耳を傾ける。


「そして、銀河を回る太陽系の速度はおよそ時速八十六万四千キロメートル。秒速にしてなんと二百四十キロメートル!」


 ふう、と言い終えると、彼女も同じく手にしたボトルのストローを伸ばして、一口。


「二百四十キロメートル、凄いな。一秒で東京から静岡、浜松くらいかな」


 母の出身が静岡なので、つい口に付いた言葉だ。


「ヘリオトロープも、宇宙全体で見れば一瞬で何百キロも移動しているの。銀河の回転が水平だとすると、こう、太陽系は進む方向を軸に螺旋を描きながら銀河の渦ミルキーウェイを周ってる」


 彼女は右人差し指で小さな円を描きながら、わたしの前に右手を大きく横切らせる。


「実はこれ、研究室うちのオジサマ方の口説き文句。無駄にロマンティック」

「なあんだ、急に話が大きくなったと思ったら…… って口説かれたことがあるの?」

「ふふん。ノゾミ、そこ気になる?」

「いや、その……」


 暗がりの中、間接照明に照らされたザーリャの顔がふわっと笑う。


「猛烈なスピードで太陽も地球もみんな銀河を駆け巡っていて、決して同じ場所に留まることはないの。だから私達も流れ星みたいなもの」


 わたしはピンときた。


「あ、じゃあさ。お互いに向かって願いごとをすれば叶う?」

「ふふ、そういうこと」

「では、早速」


 と、手のひらを合わすわたしに吹き出すザーリャ。


「はは、日本ではそんな風に願いごとするの? アーカイブの中でしか見たことがない」

「ザーリャがこう、指を組むのと同じだよ、目を瞑るのも」


 そう言い返してザーリャの真似をすると、今度は彼女が手を合わせる。

 他に誰も居ないのに、小さな声で囁いた。


「ノゾミの叶えたい願いって何?」


 それはやっぱり———


「じゃあ、一緒に目を瞑ろう」




 その時、わたしの唇にブラックコーヒーの苦味が混ざった。





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