第1話「約束」
十二歳の時、両親が離婚した。
そして、僕は母親に引き取られることになった。
父親がいなくなることに悲しみはとくに感じなかった。
父は平日遅くまで仕事をして僕が寝てから家に帰って来ていたようで普段は顔を合わせないし、休日は母と僕をおいてどこかへ出かけていっていた。
はっきり言って父とは親子のやりとりをした記憶がなかった。
そんなわけで父がいない分は平気だったがそのかわりに母と会えない時間が増えた。
僕を養うために、結婚を機に退職した職場に戻ることになった母だったが、父と同じように夜遅くまで帰って来れないような状態だった。
まだ小学生だった僕が夜遅くまで一人きりでいるのを心配した親戚のおじさんの計らいで、僕は学校が終わると自宅ではなくおじさんの家に帰り、夕飯をいただいて母が仕事を終えて迎えに来るのを待つようにすることが決まった。
母さんに連れられて初めておじさんの家を訪れた時、僕はあの子と出会った。
「ユウ君。娘の蛍(ケイ)よ」
小さい女の子がおばさんの後ろに隠れるようにこっそりと顔を出した。
「よろしく。ケイちゃん」
声をかけるが返事は帰ってこなかった。
「ごめんなさい。この子。人見知りなの」
おばさんがそう言うと、ケイは一言も話さずにその場を離れていった。
「あの子何歳くらいだっけ?」
母さんがおばさんに尋ねた。
「今年で四歳よ」
ケイの年齢を聞いた母さんは僕の前にしゃがみこんで僕の顔をまっすぐに見た。
「悠馬。貴方より八つも年下なんだからちゃんとお兄ちゃんとして優しくしてあげるのよ」
「うん。わかった」
そうは言ったものの、その日は結局ケイと言葉を交わすことはなかった。
*
中学に入ってから部活に入ることもしなかった僕は、当初の予定通り平日は大体真っ直ぐ松宮家(おじさんの家)へ行き夕飯を御馳走になって夜遅くに母さんが迎えに来るまでそこで過ごす日々を送っていた。
そんな生活が二年も経った頃。
「ユウ君。これを読んで」
「いいよ。おいで」
僕はあぐらをかくように座ると僕の膝の上にケイが座った。
僕はケイに渡された本を開いてそれを読み始める。
ずっと一緒に過ごしていくうちに、人見知りのケイも少しずつ僕に心を開いてくれるようになった。
口数は少なく無表情なところは変わらなかったがいつも僕にくっついてくるようになった。
そんなケイが可愛くて、いつしか本当の妹のように思うようになった。
*
僕が高校生になってからも、学校帰りは部活に入らずに松宮家でお世話になっていた。
ケイもすっかり僕に懐いていた。
その様子はおばさんから「まるで本当の兄妹みたいね」などと微笑ましそうに言われるくらいである。
そう言われた僕は笑いながら「本当に兄妹だよ」と答えたりしていた。
そんなある日。
「ユウ君。ユウ君」
慌てた様子でケイが駆けてきた。
「どうしたの。ケイ」
「あのね」
ケイは一呼吸おくと真剣な眼差しをしながら口を開いた。
「私、大きくなったらユウ君のお嫁さんになりたい」
妹みたいな少女にそんなことを言われて僕は戸惑った。
でもその言葉の正体はすぐにわかった。ケイがさっきまでいたリビングからテレビの声が聞こえてくる。
なんの番組かはわからないけど結婚がどうこうと言う単語が聞こえたことからきっとテレビの影響だろう。
「ユウ君は私と結婚してくれる?」
「そうだな。十年経ってまだケイが僕の事を好きだったらね」
その時の僕は、深く考えずにそんな風に答えた。
子供の言うことだからすぐに忘れるだろうと思ったからだ。
「わかった。あと十年だね」
それはケイの八歳の誕生日の日の出来事だった。
*
前の年の誕生日の約束を忘れたまま一年が過ぎた。
思いだしたのはケイの九歳の誕生日。そして初めてケイの口からカウントダウンを聞かされた日でもあった。
「約束が叶うまであと九年だね」
ケイは僕にそう言ったが最初はなんのことかわからなかった。
「約束?」
「十年経ったら結婚してくれるって去年約束した」
そこまで言われてようやく思いだした。
「忘れた?」
ケイが心配そうな声で尋ねてくる。
無表情だが悲しげな感じがひしひしと伝わってくる。
「いや、憶えているよ」
本当は今の今まで忘れていたのだがそう言うとケイは嬉しそうになった。
この日が最初にこの出来事を後悔した日だった。
小さい子供の言うこと。
少しすればケイも忘れるだろうと思っていた。
でもケイは一年間憶えていた。
『ごめん。他に好きな子がいるんだ』
そう言ってはっきり断れば良かったのかもしれない。
当時付き合っていた子もいたと言うのに。
そんないいかげんだったから恋人とも一年もしないで別れてしまったのだろうか。
「ユウ君と結婚するまであと九年だよ」
ケイは嬉しそうにそう告げた。
これから先もケイは約束を憶えているだろう。そんな予感がした。
約束から一年後。
このような出来事があったせいか、僕はその約束を忘れることは二度となかった。
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