悲しい合図、或いは永遠の続き

小鳥遊かずみ

第1話

私には最愛の妹がいた。




その妹が逝った。


年の初め、まだ一月になったばかりの冬。

母から突然電話が来た。


「朋子が死んじゃった。」


妹の朋子が死んだ。

現実感なんかなかった。

こんな時は声をあげて泣くものだと思っていた。

しかし現実には空虚感だけに支配され、そしてすぐに妹のいる名古屋までの特急に乗った。



妹の死因は自死だった。



朋子は三人兄妹の真ん中、兄の私とは三つ違いの長女。私と七つ歳の離れた弟との間で明るく朗らかで兄の私から見ても可愛い自慢の妹だった。


「私ね、お兄ちゃんと結婚するんだ。」


五歳の頃の記憶がよみがえる。


「兄妹では結婚できないんだぞ。」


納得いかない表情で私を見ていた妹。


そんな思い出が心に引っかかって外せない。

いや外したくないのだ。

私は妹を家族として本当に本当に愛していた。


母子家庭だった。

父は多額の借金を残して蒸発した。

母は私たち兄妹をそれは横暴なやり方で借金を迫ったサラ金会社から守るため裁判で離婚と借金の返済免除を勝ち取った。

幼い私たちは兄妹身を寄せ合って借金取りをやり過ごした。器物破損、恫喝、それらから妹弟を守るのは兄である私の使命だった。

母は三人の子供たちを養う為に昼夜問わず働いていた。


ある晩、0時過ぎ小学生だった私は妹弟二人を残し母の働いていたスナックへ向かったことがある。

酔客相手にカウンターでおつまみなどを作ってる母が厨房裏まで来て幼い私を抱きしめてくれた。嬉しかった。その後のことは覚えていない。たぶん母と一緒に妹弟の眠っている貸家に帰ったのだろう。妹たちが泣き寂しがって待っていたら私は罪悪感に見舞われただろうと思う。


離婚が成立してから何回か静岡市内を引っ越しつつ私たち母子家庭はそれなりに穏やかに小、中学生時代を過ごした。妹も弟も学校生活は特に不満もなく充実して過ごしていた。


春には駿府城公園の桜、夏には大浜プールに安倍川花火大会、近所の夏祭り、秋には大井川紅葉狩り、冬はシリウス、オリオン座、昴の夜空。


例えば母と兄妹三人で行った夏祭りのことを思い出す。

夜店でくじ引きがあった。一回300円だか500円のやつで私は妹に自分のもらったお小遣いを渡しくじ引きをさせてあげた。当たった賞品はハズレで少女雑誌の付録というガッカリものだった。でも私が妹に何かしてあげたという記憶はこれが一番印象に残っている。


あるいは私は覚えていないが母は私たち兄妹が初めて新幹線に乗る時、駅で私は新幹線の速さに妹が飛ばされないようにと私が妹の手をぎゅっと握っていたことを覚えていると言う。全く子供らしくて泣ける。



名古屋駅についてお通夜を取り仕切る斎場へ向かうまでにそんな取り止めのない過去を思い出していた。名古屋駅から地下鉄に乗り換えて数駅のところに斎場はあった。駅には数年ぶりに会う弟が迎えに来てくれた。斎場まで取り止めのない話をしながら歩いた。仕事はどうだ?とか甥っ子は元気か?とか。斎場に着くまで感傷はなかった。こんなものなのかなとなんだか不思議に落ち着いた心持ちだった。



斎場で妹の亡骸を見た。

とても綺麗な死化粧が施されていた。

ただ眠っているだけのように見えた。


母と弟と叔母と私だけが親族としてやってきただけだった。妹の夫と私の姪に当たる妹の六歳になる娘は後から合流するとのことで、それまでは母と弟と叔母だけが妹に付き添うことになった。


母が叶わない望みをつぶやく。

「朋ちゃん、起きて。起きて一緒に静岡に帰ろうよ。。。」と。

母さん、朋子は死んだんだよ。

眠ってるように見えるけどもう死んでるんだ。

起きることはない。

もう目を開けて「お母さん、お兄ちゃん。」と言ってくれることはないんだよ、母さん。。。


妹は眠っていた。菊の花、百合の花に囲まれて。

通夜の晩、私は一人パイプ椅子に座りながらじっとろうそくの炎を見続けていた。明日の葬式までずっとそばにいてやろうと思った。

途中、眠れないのか母が線香とろうそくの火を気にかけて起き出しては妹の顔に触れた。前髪が乱れてるとかお茶をふくませてあげたいとか母も一晩そんな調子で二人過ごした。


私は幼い頃の妹のことを思い返していた。

小学生になったばかりのある日、妹の保育園に家族が迎えに行けないということがあった。理由は忘れてしまったが私は自分が保育園に妹を迎えに行くと言った。今から考えると子供に子供を預けるなど保育園の職員も甘かったが私は妹を連れて帰途についた。

しかし子供だった私は無責任なもので帰り道の途中にある用水路でエビ取りに夢中になってしまったのだった。妹にすぐ戻るからと言って土手で待たして私はエビ取りを続けた。妹は最初はよかったのだがだんだんと不安になったのだろう。お兄ちゃん、お兄ちゃんと呼びながらいつかぐずり始めてしまった。近くを通った人がそれを見つけ私は家族に大目玉を食らってしまった。あの時は悪かったなと思いながら深いため息をついた。


そうこうしてる間に時間はどんどん過ぎて行った。妹が火葬されるのは明日10時。今のうちにできるだけ妹の顔を刻みこもうと私は何度も棺の中の妹に手を触れた。時間は早朝6時になろうとしていた。


間もなく斎場の職員の方がやってきた。ろうそくが残り少なくなっていたのを母と気に病んでいたので新しいろうそくに取り替えてもらった。


1時間後には妹の夫と姪っ子がやってきた。棺の妹の顔に姪っ子が手を触れる。

「お母さん、死んじゃったの?」姪っ子の言葉に妹の夫も私も口籠もる。6歳というのはもう死というものがわかる歳なのだ。辛かった。この子にはもう母がいないのだ。私は姪っ子にこれからどんなことでもしてあげようと決めた。朋子、いいよな?兄として叔父として自分はこの子のために生きるよ。いいよな?私は心の中でそう繰り返した。


読経が終わり最後のお別れの時間がやってきた。

棺に花を敷き詰める。姪っ子がお母さんへの手紙を添える。手紙にはこう書いてあった。


お母さん、また人間になって帰ってきてね。と。


姪っ子と妹の夫と朋子の家族写真も納められた。


こんな可愛い姪っ子を残して何故。。。そんなやりきれない思いで祭壇のモニターに映し出された妹の笑顔を見ていた。桜の花の舞い散る中、妹は笑顔だった。


出棺、私を含め妹の夫、弟と男性陣が棺を霊柩車に納める。火葬場へ向かうのだ。


火葬場に行く途中、小雨が降り始めた。

叔母が言う。「涙雨だね。。。」

涙雨か。。。そうかもしれないなと思った。

妹の夫が先導してくれて火葬場へと無事着く。

ああ、もう数時間後には妹はもう灰になるのだなと思うといたたまれなかった。


火葬には姪っ子は同席させなかった。お骨を見るのはさすがに辛いだろうという大人たちの配慮だった。

妹の夫が火葬承諾書にサインする。読経が始まる。

棺はボタン一つで火葬場に吸い込まれていった。

さよなら。妹よ。さよなら。悪いお兄ちゃんだったね。何の力にもなれずに。私はごめんよ、ごめんよと心の中で謝罪していた。


2時間ほどで火葬は済みますと火葬場の職員は言った。

別室で親族が集まりお茶を飲む。

私は妹の夫に言った。「幸せになってね。」

妹の夫はかすかに微笑んで「はい。」と言った。


しばらくして妹の夫は職員に呼び出され、私の親族と妹の夫の親族だけになった。少しの沈黙の後、私は皆んなに向かって謝罪していた。すみません、本当にすみません、こんな死に方して本当にすみませんと。

皆、黙っていた。私は心の中で泣いていた。


火葬が終わったアナウンスが流れた。お骨上げが始まるのだ。

母は私の手をぎゅっと握っていた。かすかに震えていた。妹は骨と灰になっていた。かわるがわるお骨を骨壷に拾い上げていく。立ち姿になるように足からお骨を上げていくのだそうだ。足、腰、背中、頭と拾い上げていく。入りきらないお骨を残して骨壷は妹の骨で満たされた。

 

火葬は終わった。


外に出ると小雨はすっかり上がっていて晴れ間がのぞいていた。


私はある歌を思い出していた。三浦俊一の悲しい合図だ。


今の気分にぴったりの曲だった。


そして火葬場の駐車場で解散した。私は帰りぎわ姪っ子を思いきり抱きしめて、またね、忘れないでねと言って帰路についた。


帰りの特急で私は完全に虚脱していた。

周囲を見た。学生、サラリーマン、雑多な人の群れの中で私は昔の妹と二人だけで遊んでいた思い出を反芻していた。ザリガニ取り、バッタ取り、セミ取り、チョークで落書きしたアスファルト、妹の笑顔ばかりが思い出されて仕方なかった。


私はウォークマンで音楽を聴いた。

ケラ&ザ・シンセサイザーズの永遠のつづき。


沁みた。兄と妹、ふたりぼっちだったあの朝私はたしかに妹を愛していた。


電車が停まる。

改札を抜けて私はまだ泣くことができなかった。


いつかこの日を思い出して泣く日がくるのだろうか。


それはわからない。


私は泣けない自分をそれでも愛しながら妹のいない人生をこれから生きていくのだ。


私はそっと妹の遺影を胸にしまい歩き始めた。

空は夕暮れて心にそっと影を落として私を照らした。


夜が来てまた明日がやってくる。

またいつか朋子、お前の元に行くよ。

それまで待っててな。

笑顔で迎えておくれ。


最愛なる妹、朋子よ。また会おう。しばしさよなら。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悲しい合図、或いは永遠の続き 小鳥遊かずみ @utyoten

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ