第19話 手紙(先生)

  先生が姿を消して一ヶ月程、僕は抜け殻のような状態で毎日を過ごしていた。少し気持ちが落ち着いた時、怖くて避けていたけれど、やっぱりちゃんと真実を見届けないと納得できないと思い、フィレンツェ行きの切符を買った。


 割と真面目に働いていた分、しばらく休暇を取る事にほとんどのクライアントは何も文句を言わなかった。誰にも迷惑をかけないように、残った仕事を片付け、一週間後に僕はリュック一つで飛行機に乗り、イタリアへ向かった。先生と出会っていなかったら、一生訪れる事がなかったであろうその国は、気候も穏やかで食べ物も美味しく、旅行で来ている人々は皆楽しそうだった。到着したその日はほとんど眠る事が出来ないまま、ホテルのベッドの上で一晩を過ごし、翌朝早々に部屋を出た。よほど酷い顔をしているのか、フロントの男性に「大丈夫か?」と声を掛けられる。手振りで適当に挨拶をして、先生の生きた街を歩く。来てしまったけれど、怖くて誰にもガリレオについて尋ねられず、僕はまっすぐガリレオ博物館に行く事にした。


「先生、自分の名前が付いた博物館が出来とるで。先生のやった事は一つも間違ってない。世界を動かす大偉業やったんやで。」

 先生が星の観察に使った望遠鏡や、天球儀が展示されている。そして、博物館は世界中から訪れるガリレオファンで混みあっていた。すごいな、先生。ここへ来るために休暇をとったのに、展示されている物がぼんやりとしか見えず、そのぼんやりさえもポロポロと頭からこぼれ落ちて行く。あかん、ちゃんと見な。そう思った時、僕の視界に飛び込んできたのは、ガラスケースの中に飾られた僕のお下がりのステューシーのシャツだった。400年の時を経てボロボロになっているけど、間違いない。先生がいなくなる前日に着ていた服や。息を飲んでガラスにへばりつき、服に見入った。「ガリレオが好んで着用していた服」という説明書きが添えられていた。


「先生、無事に戻れたんやな。」僕の所に迷い込んできたおっさんが間違いなくガリレオで、きちんと家族の元に戻れた事が分かって、僕は寂しかったけど安心した。確かめたい事をきちんとこの目で確認出来た。もう日本へ帰ろう、そう思って足取りを速めた僕は、他の客が半ば素通りしているガラスケースの前で釘づけになった。


「手紙・ガリレオは日本語を学んでいたと思われる。日本人の知人はいないため、誰から教わっていたのか不明。勉強のために架空の人物へ宛てて書いた物」そんな説明書きとともに、色褪せた今にも破れそうな紙が展示されていた。一枚の紙が下手くそな文字でびっしり埋め尽くされている。


 「しんあいなるみつしげ

 めがさめたらじたくのべっどのうえやった。ながいゆめをみていたのかとおもったが、いっしょにきゃんぷじょうでほしをみたひのむしさされのあとがいっぱいのこっている。きのうきてたふくもそのままや。かぞくはなにもかわらない。どうやらあのひにもどってきたらしい。でも、みつしげのこともちゃんとおぼえている。みつしげはいつかきっとふぃれんつぇをたずねてくれるとしんじててがみをかくことにした。

 

 いろいろじぶんなりにときをこえることについてかんがえた。ときをこえて、れきしにさからうことをすると、みつしげのきおくからわたしがいなくなってしまうのではないかとおもい、わたしはみつしげとのくらしのなかで、ほしのけんきゅうをしないことにきめた。なんどもてんたいぼうえんきょうでほしをみたけど、もどってから、そのはなしをだれかにしたり、おなじものをつくろうとしたりはしなかった。うんめいにさからわないときめたから、かみさまはわたしのきおくをそのままにしてくれてるんちゃうやろか。だとしたら、みつしげのきおくもきっとそのままで、ぜったいこのてがみをよんでくれてるんやろな。だいせいこうや。


 みつしげ、わたしとあえなくなったことをかなしまないでほしい。であえたことがきせきや。おなじときをすごし、いろんなことをきょうゆうできたことをこうふくとおもってほしい。わたしもみつしげにであえて、しあわせやった。わたしはほしになってずっときみをみている。ひるのひがつよくきみからそのすがたがみえないときもかならずみまもっている。だからかなしいかおをしないで、うまいものをたべてたのしんでかえってくれ。またいつかあえるときまで、いいしごとをたくさんして、べがをもっとおおきくしといてくれ。たのんだで。あ、それとみつしげにならって、うちのかくんも『こまったときはおたがいさま』にした。しんせつにしてくれてほんまにありがとう。ほな。がりれお。

 

ついしん いえにかえったらひげがはえとった。おきにいりのつーぶろっくはうしなった。もじゃもじゃのおっさん。」


 先生、ここの博物館、展示品の説明書き間違っとるやないか。架空の手紙って何やねん。

 

 先生がたった一度だけ、僕の前で泣いた時のように、大勢の観光客が行き交う中で、僕は大粒の涙を流し続けた。それを拭う事さえしようとしない僕を周りの人々は、声を掛けてくることさえなく、遠目に不審そうに見ている。もう、ここは出よう。他のフロアに足を運ぶ事すらせず、僕は博物館を後にした。

 地図もガイドブックもリュックに入れたまま、泣きながら歩き続けた。途中で警官が声を掛けてきた。「ほっといてくれ!」声を荒げる僕に、良心で声を掛けた警官も、そして僕自身も少し驚いた。どこをどう歩いたのか、人の流れに任せて辿りついたのはサンタ・クローチェ教会だった。ガリレオが埋葬された教会。敷地内には先生の立派なお墓がある。お墓参りとは名ばかりの観光客が、順番にお墓をバックに記念撮影をしている。


 僕の番がきた。たくさんの花が飾られた大きな墓の隅にサクライさんの缶コーヒーを供え、「先生!」と呼んだ。返事がないのは百も承知で、何度も何度も「先生!」と叫び、その場で泣き崩れた。400年前の偉人の墓の前で、たった今大切な人を亡くしたように号泣するアジア人に教会のスタッフは慌て、半ばひきずられるように僕は教会の事務室の中へ運び込まれた。


「そんなにガリレオが好きなのかい?」そんな事を尋ねているのだろうと思う。そういえば、僕はイタリア語が全く分からないんやった。相槌を打ちながら出されたジュースを飲んでいると、スタッフが手招きした。礼拝堂でパイプオルガンの演奏が始まるところやった。何の曲か分からないけど、先生も聴いた曲かも知れん、そう思うと少しだけ気持ちが落ち着いた。散々迷惑を掛けた教会の人達に身ぶり手ぶりで謝罪とお礼をして、再び街へ出た。明るい空で先生が心配そうにこちらを見ている気がする。


「先生、心配かけてごめん。せっかく来たんやし、楽しんで帰る事にするわな。」二人で奪い合って使った一眼レフを構えた瞬間、昼間の白い星はすっと消えた。

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