第18話 蒸発
白井教授との面会まであと二日という日。朝起きたら、昨日まで何も変わらず、ワインを呑んで夜通し長話をしていた先生が突然居なくなっていた。400年前に戻ったな、漠然とそう思ったが、様子がおかしい。ぽっかりと先生だけがいない。飾ってある絵もそのままやし、初めて会った日に着ていた服も残っている。洗い物は明日にしようと流し台に置きっぱなしにしたワイングラスも二つそのままや。それに、僕の記憶もはっきりしていた。パソコンに電源を入れ、写真を一枚一枚確認したが、僕が撮った天体望遠鏡をのぞく先生の横顔の写真も残っている。先生が撮った写真ももちろん全部残っている。近くに出かけただけなんやろうか。心配になって、先生の行きそうなコンビニや本屋、スーパー、最近のクライアント、思いつく所は全て行ってみたが、どこにもいなかった。ひょっこり戻ってくるかもしれない。わずかな希望を捨てずに一人で仕事をしながら待ち続けた。
驚いた事に、記憶が残っているのは僕だけではなかった。長い間家族写真を撮り続けてくれているクライアントが、
「あれ?今日先生はおらへんの?」と聞いてくる。
「イタリアに帰ったんや。」聞いてくる人にはそう答えるしかなかった。
「えー、いつ帰ってくるん?成人式の写真、絶対先生に撮って欲しいから、それまでにまた日本に戻ってきてって、伝えてね。」
「分かった。分かった。じき戻ってくるやろう。この街が大好きやし。」そんな会話をしながら、何度も泣きそうになった。時が経つにつれ、先生はもう戻って来ない、そんな思いが強くなっていた。
しかし、ベガの名を掲げた先生の作品は一枚も消えていない。地下鉄のホームに飾られた大きなポスターも先生の作品や。こんなに痕跡を残して過去に戻る人っておるんやろか。それだけが疑問だった。そんな中、消えている物がいくつかあった。それに気付いた時先生は帰ったと確信した。
僕はデスクの上を大捜索していた。先日面会した白井教授の名刺である。頂いた名刺はその日のうちにあいうえお順にファイルすることしてある。一枚だけ他の所に置いた覚えもない。なのにどうしても見つからなかった。
もう二度と連絡を取りたくない相手ではあったけれど、先生に会いたいと望まれ、確認して再度ご連絡しますとこちらから言ってしまった以上、礼儀として帰国した事を伝えておこうと思ったのだ。でも名刺が見つからない。仕方ないので、大学のホームページから研究室の電話番号を調べ連絡してみる事にした。
「はい、白井です。」声を聞いただけで、変な汗が出る。その後何か調べて発覚した事があるんじゃなかろうか。
「先日は、お世話になりました。アトリエベガのミツシゲです。あの、うちのアシスタントに会いたいとおっしゃっていた件なのですが。」
「ちょ、ちょっと待ってくれないか?君は誰だね?アトリエ?アシスタント?一体何のことだ。」
「え?あの、先日大学のオープンキャンパスのパンフレットの撮影のお仕事をいただきまして、教室を撮影させていただきました。」
「あー。覚えているよ。撮影しているところを見かけた。一人でご苦労だね。で、私に何の用だろう。」
「あ、すみません。お忙しい所番号を間違えてしまったようで。事務局にお電話したつもりでした。」
「そうか。じゃ、忙しいので失礼するよ。」
白井教授は先生の事を全く覚えていなかった。先生は居ない事になっていた。そして、女子高生のツイッター記事がごっそりなくなっていた。ホッとしたのと同時に例えようのない寂しさが僕に襲いかかってきた。ケンカ別れでもない、死別ですらない、この別れは正直きつかった。仕事に没頭して気を紛らわすことしか、僕には思いつかなかった。全力で働いた結果、ベガはどんどんその名を知られる事になって、スタジオまで持つ事が出来るようになった。先生、いつ帰ってきてもいいんやで。一人になって広くなった部屋を掃除しながら、ついつい二人分の食事を用意して、僕は毎晩のようにつぶやいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます