第8話 星
今日のミツシゲの仕事は、山あいの小さな温泉街のPRに使う写真を撮る事だった。山や川の風景写真だけでなく、いくつかの観光スポットと旅館のお風呂や客室を撮影し、まだ日の明るいうちに一日の作業は完了した。
「さて、先生は星を観たいんやな。」ミツシゲが車をポンと叩いて言う。
「僕はこのまま温泉旅館に泊まりたかったんやけども。」ニヤリと笑って、私に車に乗り込むように手振りをした。ミツシゲが私を連れて来たのは小さなキャンプ場だった。平日のせいか他の宿泊客はいない。
「先生、ここ穴場やから。絶対他の人に言ったらあかんで。混んだら嫌やし。」何だか分からないが、この国に知り合いのいない私に必死で口止めしている。その姿がおかしくて、大笑いしてしまった。思えば笑うのはどのくらいぶりだろう。
「おー、先生、笑ってた方が男前やで。」ミツシゲも嬉しそうだ。
私達はなるべく空が広く見える草地にテントを張った。いつの間にかミツシゲは今日の食材だけでなく、私のための寝袋まで用意してくれていた。
「今日は雲がないから、きれいな景色が観えると思うわ。先生、早めにご飯食べてスタンバイしよう。」このへんてこな二人暮らしが始まってから、料理は私の担当で、ミツシゲが台所に立った所を見た事がなかった。薪を割り、火を起こし、狭いスペースで手際よく食事の準備を進めていく。
「今は先生に任せっきりやけど、実は料理好きなんやで?」私の思っている事が伝わったかのようなタイミングで彼は言った。
「どうする?お酒。」とワインのボトルを高くさし上げる。目の前には美味しそうな肉が焼き上がり、燻製にされたチーズがとろけていた。
「呑んで寝てもうたら、星観られへんで。」と笑うミツシゲからボトルを奪い、彼のグラスにワインを注ぎ二人で乾杯した。このままイタリアに帰れないのも悪くないのかもしれない。そんな事をふと思いながら、日が暮れるまでゆっくりと食事を楽しんだ。
周囲に外灯がなく、日没とともに辺りは真っ暗になった。少しずつ星が光り始め、徐々にその数が増え始める。貸し切り状態のキャンプ場のど真ん中に椅子を置き、首が折れる程天空を見上げ、満天の星を飽きることなく眺め続けた。
「ほんまに、今日は星日和や、よかったなぁ先生。」ミツシゲは私に話しかけながらカメラをセットした。
「ほな、僕はもう寝るさかい、先生も程ほどにしいや。あ、カメラ出しっぱなしにするけど、絶対に触ったらあかんで!」と釘をさし、テントに入っていく。望遠レンズより小さなレンズがつけられたそのカメラは私と一緒に空を観ていた。何を撮るつもりなのだろう。
降り注ぐ星の光をもっともっと感じたくなり、私は椅子に座るのをやめ、草の上に仰向けになった。空に自分が吸い込まれていくような感覚と、空が降りて来るような感覚が交互に襲ってくる。子供の頃にも同じような気持ちになって、星の研究を始めたのだった。今日は流れ星も多い。これが普段観られない人類なんてちょっと可哀そうだ。そんなことをぼんやり考えながら、流れ星を数え、少しずつ位置を変えていく星を追い続けた。
「うわー!先生、あかんって!何やっとんねん。」どのくらいの時間が経ったのか、いつの間にか眠ってしまったようだ。気付いたら明るくなっていた。そして、ミツシゲが怒っている。
「いくらなんでもそこで寝たらあかんて!イタリアには虫おらんのか?」一晩草の上で過ごしてしまった私は体中を虫に刺されていた。寝起きでぼんやりとしていた意識がはっきりしてくると、あちこちが痛かったり痒かったりするし、出血している所まであった。まぶたも酷く腫れ上がっている。
「あんな?先生はパスポートも保険もないんやから、病院にも簡単に行けへんのやで!」返す言葉もなく、私は子供のように叱られている。
「健康第一、ケガも病気も禁止や。」ミツシゲが小さなボトルを鞄から出してきた。「ほれ、刺された所見せろや。」言われるがまま、ぶつぶつと赤く腫れている足を見せると、ミツシゲはボトルの中の液体を塗った。
「うわっ」我慢できない程しみる。
「全部治るまでに1週間はかかるで。」医者が患者に諭すような口調で言うとミツシゲはそのボトルを私にくれた。彼の言った通り、私は1週間かゆみと腫れに苦しみ、アシスタントの立場ながら、手の届かないところは薬を塗ってもらうという、大失態をやらかしたのだった。
「ま、なんでも勉強や。季節が変わると観られる星も違うし、虫も減る。また行こうな、先生。」この青年には頭が上がらない。敵なのか味方なのかと、会った時一瞬でも思った事を悔やんだ。心から恐縮しつつも、半裸で背中に薬を塗ってもらう真夏の昼下がり。私は冬の寒空に浮かぶ星に思いを馳せた。
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