第12話 遠き日の白い午後に私は思った

Twitter*に映画のことを書き、ビクトル・エリセの作品をあれこれ思い出したせいか、ふと、遠い日のマドリードが蘇ってきた。(* 2021年初出の文章です)


ソフィア王妃芸術センター。ゲルニカで有名な美術館。早春の午後、私はふらりと出かけた。


名作を見ようといつだって人は多いけれど、なぜかその日は妙に静かだったような気がする。いやそう思うだけで、本当は賑わっていたのかもしれない。けれど記憶の中のそれはとんでもなく静かなままだ。


絵の力ではないだろうかと思う。ゲルニカは思ったよりも小さいし地味だ。だけど、だからこそ、秘められたものが濃く強くなる。


怒りというものは、いつもマグマのように苛烈なわけではない。底なし沼のように暗く深く、絶望を感じさせる時もあれば、じっと蓄えられていく不屈の精神と力にはっとさせられる時もある。


ゲルニカをはじめ、スペイン内戦が芸術家に与えたもの。ルイス・ブニュエルの映画しかり、ガルシア・ロルカの詩しかり。静かなのに私たちを奮い立たせるもの。彼らの怒りは負のエネルギーではなく、むしろ反対に燃え盛り、命の強さを教えてくれている。それは人として生きることを後押しする力。芸術とはそうあるべきだと、作品に触れるたび思いは心に刻まれる。


あの日、中庭にはまだ芽吹きはなく、白々と春を求める気配だけが濃厚だった。作品観賞後、バスルームでハンカチを口にくわえて手を洗っていた私に、授業の一環でやってきたのだろう高校生が声をかけてきた。


ねえ、今何時かなあ


横を向いた私は、もちろん喋れるわけもなく、まだ濡れたままの手を掲げ、黙って腕時計を見せた。


作品鑑賞とも芸術とも関係ない、ただそれだけのふれあいだ。けれどなぜか今も色あせない。蛇口からの水音、石の壁の冷たさ、窓から見た中庭の樹々。それは何の変哲もない日常の音、温度、色、時間。だけどそれは、あまりにも平和で穏やかな時間で、どうしようもないくらい愛おしくて美しかったのだと思う。


記憶というものが結びつく先には、何があるのだろう。白い午後にはただ、優しさだけが残されていた。

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