第9話 アーモンドの花咲く白き要塞

あれもこれもと準備してくれた友人のおかげで私は普段の延長みたいにトルコ旅行へと出発した。


それでも「これだけは!」とバッグにしのばせたのは塩野七生さんの「コンスタンティノープルの陥落」。何度も何度も読み返した本。ファンタジーから始まった私の読書歴は、その頃歴史小説へと移行していた。事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。嘘みたいにめくるめく時代の流れに翻弄される。息がつまり、喉が渇き、二度とごめんだと悪態をつきつつも離れられない、この本もそんな一つだった。


さて、イスタンブールは春の頃、アーモンドの真っ白な花が盛りで、私はガラタ橋からボスポラス海峡をいくフェリーに乗った。左岸には青葉の中、かつての白き要塞が見え隠れする。振り返って見る右岸には遠い日、大地を埋め尽くすオスマン帝国軍の姿があったはずだ。


急を知らせる鐘の音、遠く地鳴りのような勝どき。動き始める歴史の波が美しき都を覆い尽くしていく。行間に充満していた気配が濃厚に立ち上がり、夢と現実の狭間で、私は再度、高まる緊張感に震える我が身を抱き、耳を澄まし息をひそめた。


握りしめた文庫本には真っ赤なカバーがかけてある。その色は、東ローマ帝国の栄光なのか、オスマンの見せる力なのか。私はどちらにもくみしない。ただただ、崩れゆく一つの時代を見つめるだけ。でも……。爽やかな風が吹いていた。甘い香りがどこからともなく運ばれてくる。花に埋もれる要塞は穏やかさに満ちていて、私は大きく息を吐き出した。


美しい春の中で、長い長い夢から目覚めるような気分だった。何もかもが忘れ去られて、けれど何もかもが許されるのだと思った。時の流れは残酷で、しかし何よりも優しい。


絹の靴下に刺繍された双頭の鷲がまぶたの奥で羽ばたいた。あの日、戦いの中に消えた帝国最後の皇帝も、花香るこの春をどこかで見つめているだろうか、ふと、そんなことを思った。

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