第6話 嵐の予兆とオスカー・ワイルドを思う朝

10日前、驚異の破壊力でニューオーリンズに上陸したハリケーンアイダ。カトリーナから16年。第2話、フレンチクォーターの話は奇しくもその年のもので、訪れた直後の悲劇を思い出し、無事を祈るばかりだった。


その日、NYも遠く嵐の予感を孕むような曇天。浮き足立っていたのだろうか、誰よりも早く起きたというのに朝食を食べ忘れた。誰もいなくなったダイニングルームでパンを切る。手元には、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」についての考察。


私は博愛主義者ではないし、自己犠牲についても懐疑的だ。だけどなぜか昔から「幸福の王子」が好きだった。ふとした時に、割れた王子のハートとツバメの遺骸を抱く天使の絵が、心に浮かび上がるのだ。


静かな朝の中、トースターから跳ね上がるスライス。その時、ようやくその理由がわかったような気がした。


オスカー・ワイルドは正直者なのだ。


王子は自らのすべてをかけたというのに、そんなものは結局、誰の心にも響かなかったという事実。みすぼらしくなったものは、捨てられ忘れ去られる運命。そこには、独り善がりという罪と自己犠牲の虚しさが書かれている。理不尽がまかり通る様子がこれでもかと書き記されているのだ。そしてそれが、紛れもないこの世界だ。


私は焼き上がった表面にレモンカードをたっぷりのせた。


どうしようもないことは山のようにある。この世界から理不尽がなくなることもないだろう。だけどきっと、泣く必要も、嘆く意味も、必要以上に構うこともないのだと思った。なぜなら、結果がどうであれ、やりきった者だけが持つ喜びは確かに存在するからだ。だから、自分が思うことに突き進むだけ、それだけ。


私は本の表紙を眺めた。荒れ狂う嵐を前に、動じることなく微笑むオスカー・ワイルド。迫り来るものから逃れることはできなくても、それを超えていく力を育てることはできるだろう? 透明な眼差しがそう語りかけてくるようだった。


手にしたスライスを一口噛み砕き、喉を滑り落ちる優しくまろやかな甘酸っぱさに、私は一人静かに微笑んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る