第4話

 秋奈は、目覚めた瞬間に生きた心地が一切しなかった。当然だろう、彼女は99回死んだのだ。


 今の彼女は虚無状態だった。何もない、無の境地。生きてもおらず、死んでもいない。生命として、生物として、相応しくない精神状態だった。


 だが、そんな彼女の底の見えない海のようなどす黒い眼に、まるで海面に近付いた青魚が太陽の光を揺蕩う海に映し出すような、そんな些少の光が宿った。


 正面にある家屋の二階、その窓の向こう側で今まさに、鍔の無い短刀、匕首あいくちを用いて自殺を行おうとしている少年を見つけたのだ。自分と同じ、自殺志願者。


 自分と同じ過ちを犯そうとしている彼を、秋奈は放っておけなかった。


 無意識のまま、秋奈は走りだし、超人的な跳躍力を発揮させ、彼のいる部屋の窓を蹴破った。その勢いのまま、彼女は匕首を持っている少年の手を蹴り、力ずくで自殺を食い止めた。


 しかし、少年が痛みのあまり手から放してしまった匕首は、刃先を地面に向け、垂直のまま少年の足に落下した。


 「イッッッアアアアアアアアッッッ!!!」


 彼に一体何が起きたのか、無意識のまま行動を起こした秋奈には理解できなかった。そして、彼女の精神状態は、少年の絶叫によってようやく正気を取り戻した。


 「な、何よ」


 「何よ、じゃないよ!見てよ!」


 そう言って少年は、匕首の刺さった左足を指差した。


 どくどくと、匕首と肉の間を抜けて溢れ出る血液が、床に張られた暖かな焦げ茶色の木の板を赤黒く染めていく。


 そんな匕首の刺さった足を見て、秋奈は少年とは対極の冷静そのもので、


 「そんなものただの切り傷よ、致命傷じゃないわ」


 と言った。


 99回もの死を経験した秋奈は、頭が潰れたり、首が凹むぐらい絞まったり、内臓が腹からこぼれ落ちたり、そういったモノを致命傷だと思っている。


 だから大体の人が大怪我だと言うだろう少年の刺し傷が、彼女にとっては単なる小さな切り傷という認識だった。


 だが、秋奈が99回死んだなんて事実を知らない少年にとって、彼女の冷めた言葉は腹を煮えたぎらすには十分な熱を持っていた。


 「これが切り傷だって言うのか!血がとめどなく溢れてる!今だって意識が飛びそうな程痛いのに!本来なら痛みなんて感じる必要なんてなかったのに、どうして止めたんだッッ!」


 しかし、残念なことに秋奈が止めに入らなければ、彼はもっと酷い痛みを感じていた。匕首を用いた安楽死など彼の細腕では不可能だった。なので秋奈は、少年をそんな酷な未来から救ったと言えるのだが、勿論そんな未来が訪れていたなんて知るよしもない少年は、さらに激昂する。


 「そもそも君は誰なんだよ!窓を割って、僕の足を刺して、おまけに嘲笑うかのような顔をしやがって!」


 そう言い放った直後、少年は自分の足に刺さった匕首を引き抜いた。


 「いっっっ…」


 痛みに耐えながらも、少年は匕首を秋奈に向ける。


 そんな少年を、秋奈は不思議そうに眺めていた。己に向けていた殺意が、一体どうして他者に向けられるのか。99回自殺をした彼女には、一度たりとも他人に殺意を向けたことがなかった彼女には、分からなかった。


 「私を殺すの?」


 秋奈は、そう少年に訊いた。


 「うん。君を殺して、僕は死ぬ」


 「ふふっ、私、あなたに殺されるの?それは十全、嬉しいわ。でも私、他人に殺されるのも、自分に殺されるのも、もう飽きたわ」


 「飽き、た?」


 「ええ、死に飽きた」


 瞬間、秋奈はこれまで生きてきた16年と短い人生の98回の中で、一度も出したことのない異次元の速度で少年に急接近し、そして、少年の顎を蹴りあげた。


 秋奈の動きに回避動作すら取れなかった少年は意識を失い、背中から床上に倒れてしまった。


 秋奈は、少年の手から再度離れた匕首を掴む。彼女の手は、匕首の刃によって切り傷が出来てしまい、そこから血が滴り落ちていた。


 しかし秋奈は、そんな小さな切り傷に痛む素振りもせず、倒れた少年を見据えていた。


 「自殺も人殺しも、素晴らしいモノじゃないよ、少年」

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