小夜時雨
白と黒のパーカー
第1話 小夜時雨
“小夜時雨”最初に見た時はなんと読むのか分かんなくってお母さんに聞いたっけな。
辞書で調べなさいって言われて探しに行ったけど、そもそも辞書が全然見つからなかったのは自分がまだ幼くて視線が低かったから。
結局はお父さんが帰ってくるのを待って一緒に探してもらい、存在を忘れられたかのように埃かぶって本棚の上段に置かれているのを見てため息をついたのはよく覚えてる。
思えばあれが私の人生最初のため息だったのかもしれない。
肝心の読み方は“さよしぐれ”これを知るためにえらく苦労したものの、言葉の響きがとても綺麗で気に入ったから考えないことにした。
そしてその意味は、夜に降る時雨。
この時やっぱり時雨の意味も分からなかったんだけど、またお父さんに肩車をしてもらう口実を作るためにわざと調べなかったっけ。
まあ結局そんな日はもう二度と来なかったのだけど。
何故か唐突に思い出した昔日への感傷に浸りながら、独りベッドの上で膝を抱える雨の夜。
ああ、そうか夜に雨が降っているからそのまんま小夜時雨。
特に唐突でもなく、自分の単純な思考回路故の回想だと理解して嘲りの笑みを湛える。
私は彼女の気持ちに気付いている。知っている。理解している。
そしてそれに応えることができないこともまた、深く自分の心を傷つけながらも知っている。
私は女で、彼女もまた女。
そこに恋愛という感情を持つことは、この世界ではタブー視されることが多い。
彼女のことは嫌いではないし寧ろこんな世の中でなければ私も……。
そう思うことも何度もあったけれど、やはりそんなことはありえなくて誤魔化してばかりいる。
キミがただ私のことを見てくれているのにも関わらず、こちらからはそれを見返すことはない。なんともずるっこい関係性。
それでも多分キミは困ったような笑顔で「おはよう」って言ってくれるに違いない。
それに私は何も知らない様を装って「おはよう」って返し続ける。
そんな枯れ木で出来た橋のような脆い関係性、いつかは頽れるっていう当然の成り行き。
そして終わりはやっぱり突然訪れた。
「ごめんね、ごめん。私やっぱり自分の気持ち抑えられない。あなたの事が好き」
涙を流しながら訴える彼女の瞳はとても綺麗だった。
それはまるで小さな夜空を投影したかのような瑠璃の色。
彼女の向かいで呆然と立ち尽くす私はまた回想に追いやられる。
お父さんが死んで、また肩車をしてもらう約束が果たせないまま時は進み、私は背が高くなった。
もう本棚の上段に仕舞い込まれた辞書を見つけられないなんてことは無い。その事実に少しだけ空虚さを感じながら再びそれを引き抜いた。
二回ほど表紙を叩いて埃を飛ばし、机の上に乗せる。ページを捲る指はいつかの思い出より大きくなっていて、目的の言葉を見つけるのにもそう時間はかからない。
ああ、“時雨”には涙って意味もあるんだ。
私、お父さんが死んだ時しっかり泣けたっけな。
そして回想は終わる。
はっとして、私は目の前で涙を流す彼女に向き直る。
「ねえ、小夜時雨って言葉知ってる? 私ね、この言葉の響きが好きでずっと大切にしてきたの」
唐突な私の言葉に意味を理解できない彼女は呆気に取られながらもこちらの真意を掴もうと頷きながら返す。
「確か、夜に降る時雨、かな?」
「そう、それでね。貴女のその瞳は小夜の空の色で、今流している涙は正に時雨なの」
今まで嘘をつき続けてきた、目を逸らし続けてきた彼女の、そして私自身の気持ち。
きっともう逃げてはいけないんだと思う。
お父さんの命日である今日、このタイミングで私に向き合えって多分背中を押してくれているんだと思う。
頽れた橋を強固な鉄の橋に作り替えられるのは今日この日しか無いのだと。
だから私は拙い言葉で必死に紡ぐ。
「ごめんね、今まで私自分の事しか考えてなかった。でももうそんな下らないことはやめる。貴女のことを、貴女だけのことを考え続けると誓う。改めて、私からも言わせてもらうね」
戸惑ってどう返せば良いのか困っている彼女の小さな唇に私の唇をそっと重ねる。
大胆な行動とは裏腹に心臓は早鐘を打っていて、顔は多分真っ赤になっていると思う。
一分かはたまた一時間か、蕩けあって混ざり合い。自分が今立っている場所が、空なのか地面なのか分からなくなるほど没頭した時間を過ごしてやっと唇を離す。
息継ぎをする暇なんて勿論なくて、二人ともが肩を大きく振るわせて息を吸っては吐く。
しばらくその音だけに包まれた夜の湖の前。
一度だけくすりと笑い合って私は再び口を開く。
「沢山待たせてごめんね、私も貴女の事が好き」
小夜時雨 白と黒のパーカー @shirokuro87
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