第4章 手紙

第13話

 鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに夢から現へと意識が引き戻される。

 須藤すとう羽卯はうはゆっくりと目を開けると、夢の余韻に浸りながらほうっと長い息をついた。

 詳しくは覚えていないけれど、久し振りに心地のよい夢見だった気がする。


 ベッドサイドから手探りで目覚まし時計を掴み、裸眼でも読み取れる距離まで近づける。

 7時を少し過ぎたところだった。学校が始まる8時半まではまだ十分な時間がある。

 低血圧で朝の苦手な羽卯がこんな時間に目が覚めるというのは珍しい。

 羽卯のマンションから学校へは5分ほどで着くから目覚ましのセットは8時。

 もう一眠りして時間ギリギリまで温かいベッドの感触を楽しもう、そう考えながら時計をベッドサイドに戻した時だった。


「はーい、姉さま、朝ですよ。そろそろ起きてください」


 いきなり部屋のドアが開き、女の子のよく通る声が聞こえてきた。

 いったい何事かと、少し寝ぼけた頭を起こして戸口を見ると、ぼやけた視界にプラチナブロンドの長髪と黒い服が映った。何かはわからないが、胸の位置から膝にかけて明るい青に見える。

「……ああ、そう言えばあなたもいるんだったわね」

 成り行きで居候として受け入れてしまった少女の存在を、寝起きの羽卯はすっかり忘れていた。


 自称堕天使の駆け出し悪魔。現在の仮の名前はエレーヌ・ヴァランタン、通称レーナ。

 何が気に入ったのか、羽卯の魂を手に入れると一方的に宣言して転がり込んできた。


 もっとも、レーナの存在を思い出したからと言ってやることは変わらない。

「あと一時間くらいしたら起こしてちょうだい」

 欠伸あくび混じりにそう呟くと、もたげていた頭を再び枕に埋める。

「ダメです。起きるのです。朝ご飯を作ったのです。姉さまに食べていただきたいのですよ」

 少女の高い声が耳に突き刺さる。

「……いらないわ。私、朝食は取らない主義なの」

 掛け布団を引き上げて少しでも防音を試みるが、レーナは布団を引きはがしにかかった。

「そんなこと仰らずに、姉さま!」

 ベッドに籠城しようとする羽卯と、引きずり出そうとするレーナ。二人の攻防が白熱する。


「ああ、もう! すっかり目が覚めちゃったじゃないの」

 レーナの執拗さにとうとう観念した羽卯がむくりと上半身を起こした。

「わかったわよ。食べるわ。食べればいいんでしょ」

 投げやりにそう言って、ベッドサイドから掴み上げた眼鏡をかける。

 見るからに不機嫌そうな羽卯の仕草などどこ吹く風といった具合にレーナが頷いた。

「はい! 腕によりをかけたのです」

 鮮明になった視界にレーナの輝き出しそうな笑顔が飛び込む。

 いつもの黒服の上から空色のエプロンを着けている。いつもキッチンに掛けている物だ。

 さっき違和感を覚えたのはこれか。

 羽卯は寝癖のついた髪を右手で荒っぽく掻き上げた。

 本当にこのは悪魔らしくない。


 ベッドを下りて立ち上がった羽卯は、ふと開きっぱなしになった部屋のドアを見て首を傾げた。

「確かこの部屋には鍵をかけておいたはずだけど?」

 ちなみにこの部屋の鍵は内側からしか開閉できない。

「はい。ですので勝手ながら開けさせていただきました」

 あっけらかんとしたものだった。

 どうやって、などと聞く必要はなかった。

 レーナは堕天使なのだ。また妙な力を使ったに違いない。


「……レーナ」


 羽卯が低い声で唸るように呟いてレーナを睨む。

「はい?」

 対するレーナに悪びれた様子はまったくない。

「今度勝手に鍵開けて部屋に入ってきたら叩き出すわよ」

 羽卯の威圧的な低い声にも、レーナはきょとんと首を傾げて右手の人差し指を頬に当てながら言葉を返した。

「しかし姉さま、部屋の外からいくらノックをしても起きてくださらないのです」


「起こすなって言ってんのよ!」


 ややキレ気味に叫んだ羽卯は、低血圧のせいか精神的な疲れのせいか軽い立ち眩みを覚えた。

「……もういいわ。顔洗ってくる」

 ふらふらと羽卯が部屋を出ていく。

 レーナはベッドの上で乱雑にひっくり返った掛け布団を手早く整えてリビングへと向かった。


 顔を洗ってさっぱり目も覚めた羽卯がリビングに入ると、テーブルの上には2人分の朝食が既に並べられていた。キッチンから漂ってくる香りはコーヒーのようだ。

「レーナ、あなた料理なんてできたのね」

 羽卯が感心していると、レーナは起伏の乏しい胸を反り返らせて得意げに微笑んだ。


「ふっふっふ、堕ちても元天使。天の叡智を甘く見てはいけないのですよ」


「……いや、あなたが料理できたのは正直驚いたけど、ベーコンエッグとトーストで天の叡智を自慢げに語るのは大げさだと思うわ。せめてマナくらい降らせてからにしなさい」

 呆れ気味に呟きながらテーブルに着く。

 レーナは少し不満そうに口を尖らせた。

「お言葉ですが、あれはそんなに美味なものではないのですよ。栄養だけは保証しますが、今時の地上の食べ物のほうが間違いなく姉さまのお口に合うのです」

 そう言ってキッチンへ歩み寄り、コーヒーのポットを持ってきてテーブルの上のカップに注ぐ。そして自らもテーブルの反対側に着席した。

 堕天使のレーナにとって食事は特に必要なものではないとの話だったが、どうやら地上の食物には関心があるらしい。昨晩も羽卯の作った夕食をおいしそうに食べていた。


「まあ、料理そのものよりコンロやトースターの使い方を知ってたことのほうが驚きよね」

 加えて昨日は羽卯を芽生の学校に呼び出すために教師の声で電話をかけてきた。

「人間の作った物など、ちょっと見れば使い方くらいわかるのです」

 最初にレーナを招き入れた日にもそんなことを言っていたのを思い出す。

 あれは強がりではなかったということか。

 そういうところは一応のところ人智を越えた存在らしいと言えなくもない。

「そんなことはどうでもよいのです。冷めないうちに頂くのですよ」


 言われてテーブルの上を検める。

 ごく普通のトーストは問題ないとして、ベーコンエッグの皿には焼きトマトとソーセージまで添えてある。やや略式ではあるものの、いわゆる英国式朝食プティ・デジュネ・アングレだ。

 正直、普段朝食を取らない羽卯には極めて重そうだった。

「レーナ、あなた一応フランス人ってことになってるの覚えてる?」

 食べる前から軽くげんなりしつつ、羽卯は尋ねた。


「ええ、もちろん覚えています。私としては別に悪魔と知られて困ることはないのですが、悪魔連れというのが姉さまの社会的信用上よろしくないのは承知しておりますし、姉さまが私を独占したい気持ちもよくわかります。そのようなこと、ご確認いただくまでもないのです」


 完全に話が逸れている上に、誰がレーナを独占したがっているというのだ?

「そうじゃなくて、この朝食は何かって聞いてるのよ」

 羽卯がビシッと指差したテーブルをじっと眺めたレーナは、一瞬の沈黙の後にぽつりと言った。

「あ、もしかして英国式の朝食はお気に召しませんでしたか?」

「私はいつも朝ご飯なんて食べないの。いきなりこんなヘビーなもの食べさせないで」

「それはよくないのです。健康で健全な生活のためにも朝食は大事なのですよ。今日のメニューは我ながらよくできたと思っているのです。冷めないうちにしっかりと食べるのですよ」


 どうして悪魔に規則正しい健康的な生活の実践を諭されなければならないのか。

 悪魔の目的は人間を堕落させることだと思っていたのだが、違うのだろうか?

 レーナの勢いに押し切られ、羽卯は何となく釈然としない思いを抱えながらもテーブルの上のナイフとフォークを取った。


「……いただきます」

「はい。どうぞ召し上がれ」

 そう言って自分のナイフとフォークを手にするレーナをちらりと見ながら、羽卯はまずベーコンにナイフを入れ……固い。何もそんなに忠実に英国式に調理しなくてもいいだろうと思うくらいにカリカリで、ナイフの刃が容易に通らない。

「……」

 羽卯は期待に満ちた目で見ているレーナをちらりと見やった後、静かにナイフとフォークを置き、カップを持ち上げてコーヒーを一口啜った。

「悪くない味ね」

 すまし顔で呟くとレーナはにこりと微笑んだ。

「お褒めにあずかり光栄なのです。お料理のほうもどうぞ召し上がってください」

「え、ええ……頂くわ」

 羽卯は頷いて再び食器を取り上げると、柔らかそうな卵から一口食べてみる。

「あ、美味しい」

 意外と言っては悪いが、黄身の半熟具合などよくできている。


 気合いを入れ直してカリカリのベーコンとの格闘を再開。何とかベーコンを切り分けると口に運んだ。

 冷蔵庫にあった物をそのまま使ったのならその辺のスーパーで買ってきたベーコンのはずなのだが、絶妙な味付けが施されている。

 ただし、現代っ子の羽卯には少々顎が疲れる歯ごたえだった。

 羽卯はそんなことをおくびにも出さずに静かに感想を述べた。

「美味しいと思うわ。……でもからは大陸式コンティナンタルでお願い」

「承知したのです。からはそうするのですよ」

 レーナはニコニコ顔で頷いた。


 ……あれ、どうして毎日朝食を取るような話に向かっているのだろう。

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