Prélude: 須藤芽生

 堀末ほりすえ芽生めいが物心ついた時、家族は母だけだった。

 幼稚園に入る頃には、父がいない自分の家が少し他の友達と少し違うらしいということがわかってきたが、芽生の感覚では最初からそうだったのだから、特段寂しいと思うこともなく過ごしていた。

 それに時々、母が勤める会社の社長だというおじさんが家に来て芽生と一緒に遊んでくれたり、本を読んでくれたりした。

 その人と母がどういう関係なのか、小さい芽生にはわからなかったけれど、そのおじさんにはよく懐いていた。


 小学3年生の秋に入ったある日、芽生は母に連れられておじさんの家に行った。

 芽生と母が暮らすマンションも2人で住むには十分な広さだったが、おじさんの家は立派な庭がある2階建ての大きな家だった。

 迎えてくれたおじさんは、これから自分たちが家族になるのだと教えてくれた。

 おじさんと母が再婚するのだと、そういう話だった。

 3年生にもなれば「再婚」という言葉くらいは理解できたが、急に家族だと言われても今ひとつ実感は湧かない。

 それでも、そのことを芽生に話すおじさんと母は嬉しそうに寄り添っていたから、芽生もなんとなく嬉しいような心持ちになっていた。

 その日はおじさん――新しい義父と一緒にお昼ご飯を食べて、家に帰った。


 それから芽生たちの引っ越しの準備が始まった。

 生まれてから9年間住んでいたマンションを出るのは少し寂しかったけれど、新しい家はそんなに遠くなかったから学校も変わらなかったし、それまでの友達とも別れずに済んだ。

 ただ、名前が須藤すとう芽生に変わったことで新鮮な心持ちになると同時に、少しだけむずかゆかった。


 そして迎えた引っ越しの日、これから住む家に着いて義父に出迎えられ、2階にある新しい芽生の部屋に案内してもらった。

 先に運び込まれていた芽生の持ち物が詰まった段ボール箱が置かれた部屋には真新しいベッドと学習机が用意されていて、今までと違う生活の始まりを予感させた。


 荷物の整理はひとまず置いてリビングでおやつを食べていると、玄関の扉が開いて誰かが家に入ってくる音がした。

 廊下を打つ静かな足音の後、リビングの戸口に白地に緑のラインが入ったセーラー服を着た眼鏡の少女が顔を覗かせる。

 そのままリビングの前を通り過ぎようとした少女は、横目でちらりとこちらを一瞥し、そこに見慣れない顔を見つけて戸惑い気味に立ち止まった。

 戸口に立ち尽くす少女を、義父は芽生の新しいお姉ちゃんだと、そう紹介してくれた。

 その頃中学生だった姉・須藤羽卯はうはおとぎ話のお姫様のようにきれいな少女だった。茶色っぽいふわふわの髪には光が反射して金色にも見えるくらい輝いていたし、小さな顔とスカートから覗くほっそりとした脚は透き通るように白かった。

 何も言えずにただ見とれていた芽生の肩を母が軽く叩き、挨拶をするように促した。

「あの……芽生です。今日からよろしくお願いします」

 こんなきれいなお姉ちゃんができたのが嬉しくて、仲良くなりたくて、芽生はソファから立ち上がると一生懸命挨拶した。

 しかし、姉は今にも泣き出しそうな顔で芽生と母を交互に見つめ、最後に父を怒りの籠もった目で睨みつけると、何も言わないままそっぽを向いてリビングには入らず2階に上がっていってしまった。

「羽卯!」

 父が咎めるように声をかけたけれど、姉が戻ってくることはなかった。

 父は小さく溜息をついて芽生のほうを向くと申し訳なさそうに力なく笑った。

 父の説明によると、姉はお母さんを亡くして以来ずっと落ち込んでいるのだそうだ。

 姉のお母さんというのが、父の前の奥さんだということはわかった。その奥さんが亡くなって、そうして母と再婚したのだということも。

 もしも自分の母がいなくなったらと思うとその悲しみは想像できたので、姉が落ち込む気持ちも理解できた。


 いや、理解したつもりになっていた。


 姉は芽生や新しい義母だけでなく、前から一緒に住んでいたはずの父とも言葉を交わすことがなかった。

 学校のことなどで必要な話があっても家政婦の丸戸まると泰代やすよを通して父に伝えるほどだった。

 父と母は仕事で帰りが遅くなることが多く、頻繁に出張にも出ていたから、芽生は独りで食事をすることが多くなった。姉も時間をずらすか、自室で食事を取るようになっていた。

 芽生と姉の部屋は2階の隣同士だから、偶然顔を合わせることもある。そんな時でも、姉はいつも悲しげな顔で芽生を一瞥して部屋に入ってしまう。


 声をかけようとはいつも思うのだ。でもできなかった。

 はっきりと言葉で拒絶されたら、そう考えるとたまらなく怖かった。だったら無視されているだけの今のほうがまだいい。

 そう、思っていた。


 芽生は姉の声すら知らないまま同じ家に暮らしていた。

 代わりに時折、姉の部屋から楽器……ギターの音が聞こえてくる。

 姉は亡くなったお母さんからギターを習っていたのだと、少し前に義父が教えてくれた。

 練習しているといった感じでも、曲を弾いているというわけでもなく、ただそぞろに爪弾いているような音で、それは普段の姉の顔が思い浮かぶほどにもの悲しげな音色だった。


 そんな生活が1か月ほど続いたある日、学校からの帰り道のことだった。

 家の近くにある小さな公園に差し掛かった時、歌が聞こえてきた。

 歌詞はまったくわからない外国語の、聞いたことのないメロディの歌。

 いや、歌詞もメロディもどうでもよかった。

 聞こえてくる歌声の澄み切った美しさが芽生の心を打った。

 地上に迷い込んで帰れなくなった妖精が寂しさを紛らすために歌っている、そんな空想が浮かんだほどだった。

 聴いているのが見つかったら歌うのをやめてしまうのではないか、それどころか霧になって消えてしまうかもしれない、そんな恐れさえ抱いて、芽生は恐る恐る植え込みの陰から覗き込んだ。

 ブランコにぽつんと腰掛けて歌を紡いでいるのはもちろん妖精ではなく、こちらに背を向けて俯いていて顔は見えなかったけれど、ふわふわの茶色っぽい髪の毛と冬服に衣替えした深緑色のセーラーは見間違えようがなかった。


 芽生の姉、須藤羽卯。

 学校帰りの小さな公園で、芽生は初めて姉の声を聞いたのだ。

 お姫様のように可憐な姿から想像した通りの、いや、想像したよりもずっときれいな声。

 芽生は息を飲み、いっそう体を縮こまらせて茂みの陰に隠れた。

 ようやく聞くことのできた姉の声を、たとえ一瞬でも長く聞いていられるように、そのためには絶対に見つかってはいけなかった。


 それでも歌には終わりが来てしまう。

 誰に聴かせるでもなく歌い終えた姉は小さく溜息をつき、歌の最後の一節を繰り返すように、しかし芽生にもわかる言葉でそっと呟いた。


「神様になんて会ったことがない……」


 歌の歌詞をなにげなく日本語で繰り返しただけなのか、それとも何かの意図を持って呟いたのかはわからなかった。ただ、姉の紡ぐ一音一音が悲しい祈りのように、そして姉をどこか遠いところに連れ去ってしまう呪文のように響いた。

 今すぐ飛び出して姉に縋り付きたい、どこにも行かないでと懇願したい、そんな衝動に駆られる。


 でも。

 自分にそんなことが許されるのか?


 姉の居場所を奪っているのは自分なのではないか?

 だって、姉の本当のお母さんが亡くなってまだ半年くらいしか経っていないのだと、今では知っている。

 それなのにお母さんと暮らしていた家に赤の他人がやってきて暮らすようになったら、どう思うだろうか?

 お母さんの思い出が塗り潰されていくように感じていっそう寂しい気持ちになりはしないか。

 姉の気持ちはわからない。でも自分がその立場だったらきっとそう思う。

 しばらくブランコに座ったまま佇んでいた姉だったが、やがてゆっくりと立ち上がって公園を後にした。

 芽生はただ見つからないように身を潜めてその後ろ姿を見送ることしかできなかった。


 それから約1年半が経ち、中学校を卒業した姉は家を出て行った。

 亡くなったお母さんのお父さん、つまり姉の祖父が高校の近くにマンションを借りてくれたのだと聞いた。

 そのことを巡って父とはかなり口論していたようだが、最終的に父は折れた。

 芽生たちがこの家に来てから2人が会話するのを見たのは初めてで、そして最後だった。


 春休みになって、姉は身の回りの荷物だけをまとめて引っ越して行った。

 隣の部屋にはほとんどの家具が残されているけれど、そこには姉がいない。


 もう、顔を合わせることすらなくなってしまった。


 芽生は、部屋を隔てる壁に寄りかかって泣いた。

 拒絶を恐れて踏み出せなかったことが、今となっては後悔でしかなかった。

 言葉を交わしたことなどない。声を聞いたことも数えるほどしかない。

 それなのにこれほどの喪失感を覚えるのはいったい何なのか。

 芽生は自分の中に芽生えた今までにない程の強い感情が理解できず、ただ泣き続けた。

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