第12話

 マンションの階段を上がりきって視線を巡らすと、漆黒のドレスに身を包んだプラチナブロンドの少女が、手持ち無沙汰に部屋のドアに寄りかかっていた。

「レーナ……」

 口の中だけで呟いた、この距離では聞こえないくらいの声だったはずだ。それでも少女は羽卯はうの呟きに反応するように振り向き、邪気のない笑みを浮かべた。

「まだ私をそう呼んでくださるのですね」

 羽卯はそれには答えず、冷たさを装って言った。

「出ていけって言ったはずよ」

「はい、だから出ていきました。でも、戻ってくるなとは言われていないのです」

 一瞬、今ここで言ってやろうかと悪戯心が動き、顔が緩みそうになったのを隠しつつ話題を変えた。

「あの電話、あなたでしょ?」

 小学校からの呼び出しのことだった。

 冷静になって考えてみれば、固定電話の番号は父にさえ知らせた覚えがなかった。知っているのは祖父母とれいくらいのはずなのだ。当然、芽生めいやその担任の先生が知っているはずもない。

 大方、この堕天使は羽卯自身が忘れないように電話機の前に付箋で貼っておいた番号をいつの間にか見て覚えていたのだろう。なかなか油断がならない。


『声真似は悪魔の基本スキルなのですよ』


 答え合わせのように電話と同じ芽生の担任の声で言ってのける。自慢げな笑みが小憎らしい。

「昨日、芽生ちゃんをお見送りした時に話を聞いたのです。授業参観? というのがあるけれどお父さんもお母さんもいないと。もちろん姉さまにも学校があることは芽生ちゃんもわかっていたのです。来て欲しいなんて頼めないと。それでもひとりぼっちで寂しさが重なったのですね。顔が見たくなったのだと言っていました」

「……そう」

 会話もなく、偶然以外では顔を合わせることもない姉妹だったけれど、それでも羽卯がいるといないとでは芽生の気持ちに違いがあったということか。


 と、レーナは羽卯の正面に向き直り、静かに頭を下げた。

「姉さまを騙したのは申し訳なかったのです」

「本当よ。心臓が止まるかと思ったわ」

 思いがけず素直な謝罪に、つい憎まれ口を叩いてしまう。

「それを知れば芽生ちゃんも喜ぶのです」

 レーナは柔らかい笑みを浮かべたまま慈しむようにそう言った。

「……」

 憎まれ口のつもりが、芽生を心配したと認める発言だったことに遅れて気づく。

 今更取り繕ったところで行動がすべてを示しているのだけれど。

「……私も昨日は言い過ぎたわ。ごめんなさい」

 だから、今はこちらも素直に謝ることにした。

「私には謝られるようなことは何も。姉さまが芽生ちゃんと仲良くしてくれれば、追い出された甲斐はあったというものなのです」

 本当に人がいい。堕天使なんて向いていないとつくづく思う。


「それで、何しに戻ってきたのよ?」

 冷たく作った声音があまりにもわざとらしく響いたのが何となく悔しかった。

「言ったはずです。必ずあなたの魂を頂くと」

「代金なら払わないわよ。請求するなら芽生にすることね」

「ふむ、それも悪くないのです。芽衣ちゃんなら、羽卯姉さまの心をお望みのままに操ってみせれば私のご主人になってくれるかもしれません」

 口の端を吊り上げて羽卯を流し見るエメラルドグリーンの瞳が妙に妖艶に輝いた。

「……」

「冗談なのですよ。最初のご主人は羽卯姉さまと決めているのです」

 羽卯が無言で顔を引きつらせると、レーナは再び見た目の年相応の無邪気そうな微笑みを浮かべた。

「今回の分もサービスにしておくのですよ。お試し期間だと思っていただければそれでよいのです」

 どこでそんな言葉を覚えてきたのだろうか。

「だったら不良債権になる覚悟くらいはしておくことね」

 羽卯は溜息混じりにそう言って部屋に近寄り、鍵を開けた。ドアを開いて促すようにレーナを振り返る。

「居候を続けるつもりなら入りなさい。結界なら崩したままよ」


「ああ、あの話ならほんの冗談なのですよ。いくらペンタグラムに組んでも、そんな偶然に結界ができたりはしないのです」


 レーナは小さな舌をぺろりと出して言うと、唖然としている羽卯の横をすり抜けた。

「では、しばらくご厄介になるのです」

 玄関に丁寧に揃えられた黒いパンプスを見ながら、羽卯はもう一度深い溜息をついた。

 しばらくは騒々しい日々が続きそうだ。

 その顔に微笑とも苦笑ともつかない表情が浮かんでいたことには、当の本人も気がついていなかった。

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