第11話

「すみません! 5年……えっと、5年生の須藤すとう芽生めいの姉ですがっ!」


 芽生のクラスがわからないことに思い当たったが、今は必要あるまい。家族を電話で呼び出すほどの怪我なら、芽生と直接関わりのない教師でも把握しているはず。


 ……と思ったのだが、職員室にいた数名の教師は呆気に取られた様子で羽卯を見つめている。

「まあ、誰かと思ったら羽卯はうちゃんじゃないの。学校はどうしたの?」

 羽卯の焦りとは対照的なおっとりとした声が職員室の奥から聞こえてきた。はっと視線を向けると、羽卯が6年生の時に担任をしていた年配の女性教師がゆっくり歩いてくるところだった。

「先生! 芽生は……」

 羽卯が縋るように駆け寄っていくと、

「あらあら、『すとう』って珍しい読みだからもしかしてと思ってたけど、やっぱり妹さんだったのね。じゃあ、羽卯ちゃんが代わりに来てくれたのかしら。ええ、すぐに連れて行ってあげますよ」

 と、相変わらず緊張感のない声で返ってくる。


 昔の生徒が懐かしいのか、羽卯を先導しつつ話し続ける先生の言葉に上の空で応えながら、羽卯は狐につままれた心地で今の状況を考えていた。

「すぐに連れて行く」という言葉から病院に搬送される程の怪我ではなさそうだと取りあえずは安堵した羽卯だったが、ならば当然保健室に行くのだろうと思えば、案内役の先生はどういうわけか階段を上り始めた。

 保健室は職員室と同じ1階にある。少なくとも羽卯が在学していた4年前はそうだった。教室のクラス割り当ては年度によって変わっていたけれど、保健室の場所など校舎の改築でもしない限り変わるものではあるまい。


 そんなことを考えながら5年生の教室のある3階に到着したところで、あちこちの教室から聞こえてくる授業の喧噪の中に聞き覚えのある声が混じっていることに気が付いた。

 間違いなく羽卯に電話をかけてきた、芽生の担任と名乗った教師の声だった。

 羽卯は声の聞こえた教室のほうへと歩き出していた。おそらく行き着く先が芽生のクラスのはずだ。自然と歩みが速くなる。

「羽卯ちゃん、廊下を走っちゃダメよ。急がなくても時間は大丈夫だから」

 後ろから先生が苦笑混じりにそう言った。4年経ってもまだ羽卯を生徒だと思っているらしい。いや、実際そんなものなのかもしれない。

 と、ふと先生の言葉の後半部分に疑問を覚えた。


 時間とはいったい何のことだろう?


 それでも芽生の無事が気になって廊下を足早に進んでいく。脇目も振らずに廊下を進んでいくと、芽生の担任教師が授業をしているらしい教室に行き当たった。

 格子状に木枠のついた廊下側の窓から中を覗くと、まだ若い女性教師が授業をしている。

 申し訳なさそうに電話をかけてきたことなど嘘のような、にこやかで張りのある声だった。

 授業を受けている生徒たちは何となくそわそわしていたが、その理由はすぐにわかった。

 教室の後ろに何人もの大人の女性たち……とわずかな数の男性が並んでいる。どうやら保護者参観らしい。

 更によく教室内をぐるり見渡すと、反対側の窓際の席に芽生が顔を俯けて座っていた。見たところ、どこを怪我している様子もないが、周囲のクラスメイトの雰囲気に比べて明らかに異質な寂しそうな表情だった。


『お父さんもお母さんも出張で家にいなくて……』


 その言葉が再び羽卯の耳を掠めた気がして、胸が痛んだ。

「羽卯ちゃん、遠慮しないで中に入っちゃっていいのよ」

 ようやく追いついてきたかつての担任が、そう言って静かに後ろの引き戸を開けた。教室中の視線が一斉に戸口の羽卯に向かう。

 ただ一人、肩を落としたままだった芽生も、ワンテンポ遅れてゆっくりと顔を上げてこちらを振り返った。

 芽生の、弱々しい視線が羽卯の姿を捉える。

 変化は劇的だった。

 零れ落ちそうな程に大きく目が見開かれ、それからゆっくりと表情が綻んでいく。

 暗く沈んでいた瞳からは、さながら日の出のように輝きが溢れた。


 記憶の中の芽生はいつも悲しげな顔をしていた。

 だから、これは羽卯が初めて見る芽生の笑顔だった。

 まっすぐに見つめられるのが気恥ずかしく、羽卯は小さくかぶりを振って黒板に目を向けるよう促す。

 芽生は今が授業中だと思い出したかのように慌てて前に向き直った。

 その横顔からも隠しきれない喜びが見て取れた。

「お邪魔してすみませんね。どうぞ授業を続けてください」

 羽卯をここまで連れてきた先生は、若いクラス担任にそう言って羽卯を教室内に押し込むとそのままドアを静かに閉めて立ち去っていった。

 授業参観に訪れた保護者だけでなく、一部の生徒からも好奇の目がちらちらと向けられる。

 羽卯が何かと人目を引く容姿の持ち主であるのに加えて、明らかに未成年だ。小学生の子供がいる歳にはどうやったって見えない。両親の代理にしても自分の学校を休んでまで来るものでもあるまい。


 嵌められたことに気がついた羽卯は、集まる視線にいたたまれなくなって今にも教室を飛び出したい気持ちでいっぱいになった。

 だが、ちらりと窓際の芽生を見やると、さっきまでの寂しげな表情が嘘のように活き活きとして、担任の振る質問にも積極的に手を挙げて答えようとしている。

 それが自分がここに来たからだとすれば、どうしてその気持ちを裏切ることができるだろうか。


『芽生ちゃんは姉さまのことが好きなのです』


 不意に昨日のレーナの言葉が頭をよぎった。

 そんなはずはないと思っていた。今まで芽生のことを冷たく突き放してきた自分が芽生に好かれる理由などないはずなのだ。

 しかし、今の芽生の姿を前にすれば、レーナが得意げに「私の言った通りなのです」と胸を張って言ったとしても反論できる自信はなかった。


 では、レーナの言葉のもう一方はどうなのだろう?

 羽卯も本当は芽生のことが好きなのか?

 レーナは今の状況を示して自信たっぷりに自分の正しさを主張することだろう。芽生が怪我をしたと聞いて羽卯はいてもたってもいられなかった。

 今まで、芽生がどうなろうと自分には関係ないと思っていた。

 だが、実際にそういう場に立たされた時の反応はまるで逆だった。


「すっかりしてやられたわ……」


 言葉の割に悔しさの薄い表情で独り言を呟いていると、芽生が担任に指名されて黒板の問題にすらすらと正答した。

 初めて見る芽生の快活な姿に慣れてきた頃に授業終了を告げるチャイムが鳴った。

 羽卯は、周囲のざわめきの中で一段と強くなった照れから逃げるように教室を後にした。

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