第10話

 携帯電話からオルゴール・アレンジの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が流れてくる。羽卯はうはベッドの中からもぞもぞと手を伸ばし、ベッドサイドの携帯電話を取った。

「……もしもし」

『羽卯、もしかして今起きたの? もうすぐ授業始まっちゃうよ』

 れいの慌てた声が羽卯の寝起きの耳に飛び込んできた。教室からかけているのか、背後に始業前の喧噪が聞こえる。


 ああ、昨日は目覚ましもかけずに寝てしまったのかと思い当たる。


「……ごめん、ちょっと気分が悪いから今日は休むわ」

 寝起きの弱々しい声で羽卯が答えると、電話の向こうの玲が一段と慌てるのがわかった。

『もしかして昨日の試合の時の? 大丈夫なの?』

 他校の男子生徒に絡まれたことを気にしているのだろう。本気で心配している様子なのが少し申し訳ない。

「そうじゃないわ。ただ、気分が優れないだけ」

『そう……。先生には私から言っておくけど、落ち着いたら羽卯も学校に連絡入れときなよ』

「うん、ありがとう。ごめんなさい」

『お大事にね』

 玲のその言葉の後に通話が切れた。

 携帯電話を無造作に掛け布団の上に投げ出し、天井を見上げる。眼鏡を通さないぼんやりとした視界に、いつもと変わらない真っ白な天井が映っていた。


 昨日、レーナが出ていった後、夕食を食べる気もなくなった羽卯はそのままベッドに潜り込んでしまった。情けないことに不貞寝ふてねだ。

 痛い所を突かれたとは思っていた。本当は芽生のことが好きなんじゃないかと問われればやはりノーと答えるのだろうけれど、芽生に不当な仕打ちをしている自覚はある。

 だからと言って、知り合ったばかりの年下の少女、少なくとも見た目は年下の少女に指摘されて、素直に頷けるものでもなかった。


 そう言えば、レーナはどこで夜を過ごしたのだろうか。


 ふとそんなことを思い浮かべてから、羽卯はぶんぶんと首を振ってその思考自体をなかったことにしてしまおうとした。自分にはもう関係のないことだ。

 掛け布団を引き上げ、もう一度眠ろうと試みる。


 そこに再び電話が鳴り出した。今度はリビングに置いてある固定電話の着信だ。

 学校からだろうか。玲は先生に伝えてくれると言っていたが、行き違いで連絡が来たのかもしれない。

 いっそ無視しようと思って更に掛け布団を引き上げベッドに頭まで潜り込むが、電話の音がやむ様子もない。

 観念した羽卯は起き上がって眼鏡をかけると、ドタドタと荒い足音を立てながらリビングに出てコードレスの受話器を取った。

「今日はお休みします!」

 開口一番そう告げると、受話器の向こうからは聞き覚えのない女性の声が聞こえてきた。

『お休みのところ申し訳ございません。私、和井間わいま中央小学校の……』

 羽卯の意識が一瞬にして覚醒し、背中を冷たい汗が滑り降りる。

「す、すみません。人違いでした」

 慌ててお辞儀つきで謝る。相手に見えていようがいるまいがそんなことは関係ない。

 和井間中央小学校は羽卯がかつて通っていた小学校だ。そして、今は芽生が通っているはずだった。

『いえ、お構いなく。それで私、須藤芽生さんのクラスを受け持っているのですが……』

 ぞわり。得体の知れない悪寒がした。

 どうして芽生の担任が羽卯の自宅に電話をかけてくるのだろう?

 そこで羽卯は、芽生が両親は出張中だと言っていたのを思い出した。緊急の連絡先として芽生が羽卯のことを担任に知らせた可能性はあるのではないか。


 緊急。それはあまりにも考えたくない事態を想像させた。


「芽生が……どうかしたんですか?」

『どうか落ち着いて聞いてくださいね』

 その前置きは落ち着くなと言っているに等しかった。


 数分後、最低限の身支度を整えた羽卯はハンドバッグに鍵と財布と携帯電話だけを放り込んで部屋を飛び出すと、マンションの階段を駆け下りた。

 エントランスを出て大通りまで走ると、通りかかったタクシーを呼び止め、乗り込む。

「和井間中央小学校まで」

 早口に告げる羽卯の様子からただならぬものを感じたのだろう、中年の運転手は自動のドアを閉めると、

「お急ぎのようですね」

 答えを求めるでもなくそう言って車を発進させた。

 羽卯はタクシーの中でジーンズ履きの膝の上に置いた手を震わせ、もどかしい思いのまま、電話で言われたことを思い返していた。

『芽生さんが休み時間に怪我をしまして、ご家族の方がいらっしゃらないようでしたのでお姉様にご連絡差し上げたんですよ』

 さっと血の気が引いていくのが自分でもわかった。いつものように、自分には関係ないなどとひねくれた言葉を返す余裕すらなかった。逆に、すぐにそちらに行くと返答して電話を切ったのだ。

 担任の先生は怪我と言っていたが、どれほどの怪我なのだろうか。もしかしたら病院に運ばれているかもしれない。であれば、搬送先の病院を聞くべきだったのではないか?

 羽卯の中で焦りと後悔がせめぎ合う。いずれにしても、今となってはいったん小学校に駆けつけるより他はない。


 運転手が羽卯の様子を察して近道を駆使しながら急いでくれたおかげで、タクシーは十五分ほどで小学校の正門前に辿り着いた。羽卯は料金メーターを一瞥して運転手に紙幣を渡し、

「ありがとうございました。おつりは結構です」

 素早くそう言って車を降りた。

 すぐに走って正門をくぐる。

 来客用の入り口から校舎に入ると、自分が通っていた頃の記憶を元に職員室へと駆けた。授業時間中で人通りのない静かな廊下にスリッパの音がパタパタと響く。

 荒々しく職員室のドアを開け放つと、中にいた少ない数の教員が一様に驚きの表情で顔を上げて羽卯を振り返った。

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