第9話
「で、結局のところ何しに来たのよ?」
「その……お父さんもお母さんも出張で家にいなくて……」
「家にお独りだったのですか。それは可哀想なのです。それで寂しくて姉さまの所に来たのですね」
レーナはそんなことを言いながら慈しむように芽生の頭を撫でている。その様はどこに出しても恥ずかしくない天使で、少なくとも堕天使や悪魔には見えないこと間違いない。
そんなどうでもいい感想を浮かべつつ、羽卯は抑揚のない無感情な声で呟いた。
「いつものことじゃない」
羽卯の父親は小さいながらも建築設計事務所を経営していて、頻繁に出張する。そして芽生の母親は父の秘書をしており出張に同行することが多い。
羽卯は沸き上がる怒りを抑えるように唇を噛んだ。
そうやって、あの2人は母の生きている頃から……。
「……だとして、どうしてうちに来るのよ。家には
父が再婚して以来、羽卯は家ではほとんど口を利かなくなった。必要な話もほとんどは家政婦の
そんな状況だったから、元々いないに等しかった姉が本当にいなくなったところで、芽生にとっては何も変わらないはずなのだ。
「遅くなると泰代さんが心配するわ。そろそろ帰りなさい」
「姉さま、芽生ちゃんは今来たばかりで……」
「レーナは黙ってて」
羽卯は静かな、しかし有無を言わせぬ声でレーナの言葉を遮った。それが室内にしばしの沈黙をもたらす。
「……そうだね」
やがて芽生が俯いたまま呟いた。
「ごめんなさい、急に押しかけてきたりして。わたし、もう帰るね。お茶、ごちそうさまでした。おいしかったよ」
そう言って立ち上がると、芽生はそのままリビングから玄関のほうへ出ていった。
「姉さま」
レーナが促すような声で呼びかけるが、羽卯はリビングの入り口から顔を背けたまま振り返ろうとはしなかった。
「……お見送りしてくるのです」
軽い溜息と共にそう言い残したレーナの足音がとことこと遠ざかっていく。
ドアの閉まる音が聞こえても羽卯はその場に立ち尽くしていた。自分1人になったリビングルームがいつになく寒々しく感じられた。
「バカバカしい。ずっとそうだったじゃない」
ここでの1人暮らしは1か月程度に過ぎないが、実家にいた時も独りだったようなものだ。
羽卯はソファに勢いよく体を預けると、ティーポットに残っていた紅茶を無造作にカップに注ぎ、一口飲んだ。味の出過ぎたアッサムはとっくに冷めていて、苦くて渋かった。羽卯は小さく顔をしかめ、おもむろにテーブルからミルクピッチャーを取ってカップに注ぐ。
赤と呼ぶには濃い色の紅茶にミルクが広がっていく様を無心に眺めていると、玄関のドアが開いてレーナが戻ってきた。どこまで見送ってきたのか知らないが、オートロックのエントランスから外には出なかったのだろうか。
あるいは、と考える。羽卯の濡れた服を一瞬で乾かしてみせたレーナだ。マンションのロックを解除するくらいは何でもないのかもしれない。
リビングにレーナが入ってくる。羽卯は白い渦を巻くティーカップの中身を見つめたまま、短く言った。
「戻ってきたの?」
レーナは何も答えない。
「あなたも飲む? 淹れ直すわよ」
空になったティーポットを掲げて尋ねるが、レーナはそれには答えずに咎めるような口調で言った。
「羽卯姉さまは芽生ちゃんに冷たいのです。妹さんなのでしょう?」
「義理の、ね。父親の再婚相手の連れ子って言ったでしょう」
「血が繋がっていなくても妹さんなのです。仲良くしなくてはダメなのですよ」
「血なら繋がってるわ」
「はい?」
羽卯が低く呟くと、レーナは訝しげな声を漏らした。
「私と芽生は血が繋がってるって言ったの。芽生は父の実子なのよ。芽生は父とあの女の間にできた子供よ。2人とも私や芽生には隠してるつもりみたいだけど、態度を見ていればすぐにわかるわ」
法律上は義理の姉妹に過ぎないけれど、実際には血のつながった異母姉妹。それが羽卯と芽生の関係だった。
「では実の姉妹なのですか。だったら尚更……」
「お母さんが亡くなったのは2年前、芽生はもうすぐ11歳。俗世間に疎い元天使さまでも、これがどういうことかわかるわよね?」
羽卯は自分の弱さを自嘲する代わりに皮肉を滲ませた。
つい最近会ったばかりのレーナに、どうしてこんなことまで話してしまったのか、自分でもわからなかった。同情が欲しいわけではなかった。芽生を突き放す言い訳なんて、誰にわかってもらう必要もないはずだった。
「……」
かける言葉が見つからないのか、レーナは黙ってリビングの入り口に突っ立っている。
「つまりそういうことよ」
話はこれで終わり、そんな口調で言うと羽卯はティーポットを持って立ち上がった。しかし、心にかかった靄は晴れない。
羽卯が家を出た理由もそこにあった。間接的にでも母を死に追いやった父やあの女と同じ家にいたくなかった。そしてその2人の娘である芽生も。
生まれてきたこと自体が罪であるかのように、突き放して態度で責め続けるのが不当な仕打ちであることくらいは、わかっているつもりだ。
それでも、時折顔を合わせると芽生は哀しげにこちらを見てきて、余計に羽卯を苛立たせた。
まるで自分のせいで羽卯が須藤家に居場所を失ったと責任を感じているような、申し訳なさそうな態度に、羽卯は無用の憐憫を受けているようで堪らなかったのだ。
「……それでも私は姉さまに芽生ちゃんと仲良くして欲しいのです」
ようやくレーナが発した言葉は、羽卯の意に反して話を続けようとするものだった。
「今度はアールグレイを淹れるわね。母さんが好きだったの」
羽卯はレーナの言葉など聞こえなかったふりをしてポットを濯ぎ、三角コーナーに水と一緒にアッサムの葉を捨てた。
「聞いてください。姉さま」
「嫌よ」
短く拒絶の言葉を告げ、戸棚のアールグレイの缶に手を伸ばす。
「いいえ、聞いてください。芽生ちゃんは姉さまのことが好きなのです。姉さまだって、本当は芽生ちゃんのことが好きなのではないですか?」
羽卯は虚を突かれて手元が狂った。掴み損ねた茶葉の缶が高い音を立てて床に転がる。幸いにも缶の蓋は固く閉められていたため、中の茶葉が辺りに散らばることはなかった。
「……どうして、そう思うの?」
羽卯は床に落ちた缶をじっと見つめながら低い声で尋ねた。
「私はあまり地上の物を口にしたことはありませんが、姉さまの淹れてくれたお茶はとてもおいしかったのです。温かくて優しい味でした。嫌いな相手にあんなお茶を淹れられるものではありません」
「そんなの理由にならないわ」
そう、理由にならない。何も意識はしていない。いつも通りに淹れただけだ。
だというのに、確信に満ちたレーナの言葉がいやに揺さぶってくる。
「そうでしょうか。私はそうは思わないのです。それに……」
レーナは悪戯っぽく笑って続けた。
「今の姉さまの動揺を見ていれば明らかなのです」
「……っ!」
「芽生ちゃんのことを話す姉さまは苦しそうでした。本当は芽生ちゃんのことを憎んでなんかいないのではないですか? 無理に憎み続けようとしているのではありませんか? 私にはそう見えるのです」
「勝手に決めつけないで!」
反論しようとした羽卯の声は、ほとんど悲鳴のようになってしまっていた。
違う、そうじゃない。自分は芽生が許せないのだ。芽生は自分から母を奪った2人の忌まわしい関係を象徴する存在なのだから。
言い返したいのに言葉が出てこなかった。
「……出ていって」
羽卯はキッチンの床に崩れ落ちるように座り込みながら声を絞り出した。
「出てけ!」
リビングの入り口に立ったまま動こうとしないレーナめがけて紅茶の缶を投げつける。缶はレーナが避けるまでもなく狙いを外れ、背後にあるリビングのドアの木枠に当たって床に落ちた。今度こそ蓋が外れて茶葉が辺りにばらまかれる。
しばらく羽卯を悲しげな目で見ていたレーナは、やがてゆっくりと廊下を出ていった。玄関のドアが開き、再び閉じる音が聞こえる。
呆然と床に座り込んだ羽卯の視界には、床に散らばるアールグレイの茶葉が、ただ、映っているだけだった。
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