第7話

「いやあ、晴れたねえ。絶好のピクニック日和だ」

「ピクニックじゃないよ、やまとちゃん。今日はサッカーの試合を観に来たんだよ」

「そうだった。いいよね、部活の試合の応援。青春って感じだなあ」

「フットボール。知識はありますが、こうして観るのは初めてなのです」

「あれ、レーナちゃんはフランスでサッカーとか観ないの?」

「……あ、いえ、日本で観るのが初めてということなのです」


 快晴の日曜日。

 グラウンドの高いネットフェンスの裏側にある木陰のベンチは実に賑やかだった。

「……言ったよ。デートとかそういうの抜きって。言ったけどさ……」

 だというのに、どうして乗り気だったはずのれいが一番テンション低いのか。

「あはは、ごめんね、レイレイ。あたしは中立の立場ってことに決めてるからさ」

 和は、慰めているのか何なのかよくわからない言葉をかけながら玲の肩を叩いている。中立とはいったい何のことか。

「何なの、玲? そんなに私と2人で来たかったの?」

「ちっ、違うし! そういうわけじゃないし!」

 妙にムキになって否定してくる。

 どういう理由かはわからないが、羽卯はうと2人でサッカー観戦したかったというのは間違いないらしい。賑やかなのは試合に集中できないから嫌だったのだろうか。

 とは言え、だ。

 和と美鈴みすずの前で今日の試合のことを話したのは玲だ。

 女子サッカー部でマネージャーをやっている美鈴が興味を持つのはごく自然な話だし、和もこういうイベントは青春っぽいと言って大はしゃぎだった。

 レーナまでついて来ることになったのは羽卯がうっかり口を滑らせたからではあるが、それはついでのようなものだろう。


 それにしても。

 本当に自分がこんな所に来てよかったのだろうか。

 中学からの西州さいしゅう生らしき部員たちは落ち着かない様子でこちらをちらちらと見ている。

 あれはどう考えても女の子が応援に来てドキドキしているとか、そういう甘酸っぱい感情などではない。喩えるなら、突然麓の村に降りてきた山のヌシを見るような、怯えを孕んだ視線だ。天変地異の前触れとでも思われているのかもしれない。

 大丈夫だろうか。羽卯が来たせいで萎縮して試合に負けたりしても責任は取れない。

 一方の対戦相手校の部員たちもベンチから物珍しげにこちらを見ている。

 あちらはより純粋に浮ついた感じの視線だ。

 練習試合ということもあってわざわざ応援に駆けつけている生徒も少ない中、女子5人の集団はそこそこ目を引く。

 美鈴はモデルのような長身ながら日本美人といった顔立ちだし、玲の中性的な容姿も男女問わず人気が高い。和にも好奇心旺盛で活発な小動物のような可愛らしさがある。

 それに加え、今日はレーナという人間の域を振り切った美少女がいることもあって、羽卯ばかりが視線を集めているというわけではないが、やはり落ち着かない。


 グラウンドに視線を戻すとユニフォーム姿の選手たちがピッチの中に入っていく。そろそろ試合が始まるようだ。

 西州のユニフォームはスクールカラーのダークグリーンのシャツに白のパンツ。中高の男女サッカー部で同じデザインを採用している。対する相手は白のシャツに黒のパンツ。

「それでそれで? 羽卯っちに声をかけてきた小早川君ってのはどの人?」

 和が目をキラキラさせながら尋ねてくる。やはり試合よりもそちらが興味のメインだったようだ。

 ピッチに立っている西州ユニフォームの11人をざっと見渡す。

「えっと……髪は短かったわ」

「だいたい皆そうだよね!? もうちょっと覚えてるとこないの?」

 そんなことを言われても。改めて目を凝らして確認する。

「うーん……いないみたいね。たぶん控えよ」

「14番! ちゃんとスタメンで出てるよ!」

 玲がピッチを指さしながら口を挟んできた。

「……ねえ、羽卯っち。それはさすがにあんまりなんじゃない?」

 和も呆れ気味のジト目を羽卯に向けている。

「だ、だって、学校で会った時も5分ないくらいだったし、ほとんど玲と喋ってたし……」

 加えて羽卯はほとんど玲の背中に隠れて、あまり見ないようにしていた。

「これじゃあたしのことなんて覚えてなくても当然か。お、なかなかイケメンじゃない。氷の姫君に挑戦するだけのことはあるね」

 玲が指し示す方向に目を向け、和が言う。

 妙な二つ名が聞こえた気がするが、それは羽卯のことだろうか。

「ちゃんと観てなよ。後で感想とか聞かれるよ、たぶん」

 そういう玲の声音はどこか不安げだった。

 決して強豪とは言えない西州サッカー部のこと、感想に困る結果になる可能性は十分にあるが、だとして玲が気に病むことでもあるまいに。


 いざ試合が始まってみれば、どうやら玲の心配は杞憂に終わりそうだった。

「サッカーのことは詳しくないけど、上手うまいもんだねえ。羽卯っちを試合に呼んでアピールするなんてベタなことをするのも頷けるよ」

「和好みの恋愛小説展開ってところ?」

 恋愛小説はベタなほうが面白いと言っていた和には格好のネタなのだろう。

「そうだね、あとは羽卯っちの目がハートマークになってれば完璧だ」

「……そういうのはちょっとないわね」

「羽卯っちは厳しいなあ」

 14番、小早川は確かに西州イレブンの中では頭一つ抜けたプレイを見せている。あれなら大会が始まってもレギュラー入りは堅いだろう。

 でも、それだけだ。

 もしかしたら名前と顔くらいは羽卯の記憶に残るかもしれないが、特別な感情に発展するほどのものではない。


 鋭いホイッスルの音に意識を戻すと、相手チームのファウルで西州がフリーキックを得たところだった。

「へえ、小早川君が蹴るみたいだね」

 玲が感心げに言う通り、14番がボールをセットして数歩下がり、軽く助走をつけて右足でボールを蹴った。壁を巻いてカーブしたボールはゴールの端に吸い込まれていく。

 チームメイトの祝福を受けながらも、小早川はこちらをちらりと見ると大きく右の拳を掲げてみせた。

 その光景が、昔の記憶を呼び覚ます。

「懐かしいわ」

「え、急に何?」

 ぽつりと漏らした羽卯の言葉に玲が反応する。

「中1の時にも玲に練習試合に誘われたことがあったでしょ。あの時も玲がフリーキック決めてたのを思い出して」

 ちょうど今くらいの時期だったと思う。「出番はないかも」などと言っていた玲だが、実際には1年生ながら大活躍だった。

 あの時も今の小早川のように羽卯に向けてガッツポーズを見せたものだった。

「ほほう、イケメンと同じムーブで格好いいところ見せつけるなんて、昔のレイレイもなかなかやるもんだねえ」

「そ、そんなこともあったかな……」

 和のからかうような口調に、玲は少し照れて赤くなっている。

「確かにあの時の玲は格好よかったわね」

「へえ、見たかったなあ。わたしも中学から西州に通ってれば……」

「美鈴まで! 私のことはいいから今の試合を観なよ!」

 玲の叫びが晴天の空に響いた。


 試合は小早川の活躍もあって西州の勝利となった。この後は少しインターバルを挟みメンバーを入れ替えて再試合とのことだ。おそらく小早川の出番はもう終わりだろうから義理は果たしたと言えるが、玲はこの後も試合も観たいとのことなので、付き合うことにする。

「ちょっと飲み物を買ってくるわ」

 玲と美鈴がサッカー部員たちの所に言って話し込んでいる間に水分補給をと思い席を立った。

「羽卯姉さま、私が行きましょうか?」

「大丈夫よ。ちょっと気分転換に歩きたいし」

 レーナの申し出にそう答えて歩き出す。

 自販機はグラウンドが併設されている公園のトイレ近くにあった。

 目的のお茶を購入し、取り出し口から拾い上げて立ち上がった時だった。

「君、西州の生徒だよね?」

 そんな声が聞こえてびくりと体が震える。

 恐る恐る顔を向けると数人の高校生らしき男子がこちらを見ていた。

 見覚えはないし、口振りから相手校の生徒だろう。私服姿なのを考えるとおそらくサッカー部員ではない。

「すごく可愛い子がいるなあって気になってたんだ。ねえ、よかったら俺たちと一緒に試合観ない?」

「お断りします。友達と一緒なの」

「一緒にいた子たちでしょ。もちろんお友達も皆でさ。」

「い、嫌だって……」

 口の中が乾いて言葉が続かない。

 明確な拒否を示しているにもかかわらず、男子生徒たちはこちらに近づいてくる。

 あと数歩で、彼らが手を伸ばせば羽卯に届く距離に入る。

 後ずさりながらも体の震えが止まらない。


「羽卯!」


 聞き慣れた声が救いのように響き、羽卯は思い出したように息を吐いた。張り詰めた心が安堵に向かう。

 駆け寄ってきた玲が羽卯の前に立ち、男子生徒たちをきっと睨みつける。

「この子に何をしたの?」

「何もしてないって。ただ一緒に試合観ようって誘ってただけだよ。この子の友達だよね。よかったら君も」

「そういうの間に合ってますから。あんまりしつこいと人を呼びますよ」

 玲が強めの口調で言い、今にも大声を上げるかのように息を吸い込むと、男子生徒たちは周囲を気にするように見回し、退散していった。

「羽卯、大丈夫?」

 振り返って尋ねてくる玲に近づこうとしたところで、思うように足が動かずつんのめるようにして前に倒れ込んだ。玲が慌てて抱き留める。

 玲のぬくもりが伝わり緊張の糸が切れた羽卯は、まだ収まらない体の震えを鎮めるように玲に縋り付いた。玲は少し驚いた様子だったが、何も言わずに羽卯の背中を静かにさすって宥めてくれる。

「羽卯姉さま、ご無事でしたか」

 やがてレーナがコツコツと靴を鳴らしながらやって来たところで、羽卯は玲から離れた。玲はどことなく名残惜しそうな表情で羽卯を見つめている。

「取り乱してごめんなさい」

 情けなく抱き着いたのが少しばつが悪い。泣かずに済んだのがせめてもの救いだ。

「いいっていいって。レーナちゃんも来たし、今日はもう帰りなよ。和と美鈴には私から言っとくからさ。レーナちゃん、羽卯のことよろしくね」

「承知なのです。姉さまのことは私にお任せなのです」

 レーナが威勢よく敬礼で応える。


「ねえ、レーナ。さっき何かした?」

 帰り道、羽卯はレーナに尋ねる。

 玲に抱き留められた時のことだ。

 足がもつれたわけでも滑ったわけでもない。何かに躓いた感触もなかった。

 緊張で体が強ばっていただけかもしれないが、一瞬だけ足が地面に縫い付けられたかのように動かず、バランスを崩して玲のほうに倒れ込んでいた。

 それにレーナが現れたタイミングも、まるで羽卯が落ち着くのを見計らっていたかのようだった。

「羽卯姉さまに落ち着いていただくのと、姉さまを助けてくださった玲さんにちょっとした感謝の気持ちなのです」

 あれがどうして玲に対する感謝になるのかわからないが、やはりレーナがなんらかの力を使ったのは間違いないようだ。

「まあ、玲さんが駆けつけなければ、あの人たちには生まれてきたことを後悔するくらいの制裁をこの私が直々に与えていたところですが」

 どうやら玲のおかげで惨劇が避けられたようだ。


 マンションに辿り着くと、エントランス前の敷石に小柄な人影が座っているのがわかった。俯いているため顔はわからないが、小学生くらいの女の子のようだ。住人の子供か、あるいはその友人か。

 少女は、足音に気づいて俯けていた顔を上げ、こちらを見た。

 それが誰なのかを認めた瞬間、羽卯の心がぞわりと毛羽だった。

 慌てて立ち上がった少女は羽卯をまっすぐ見つめて、呼びかける。


「お姉ちゃん」

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