Prélude: 桜賀玲
出会ったというと少し語弊があるかもしれない。おそらく羽卯のほうは玲のことを認識していなかっただろうから。
中高一貫で女子サッカー部のある
西州学院は大正時代に来日したアメリカ人宣教師が創立したプロテスタント系のミッションスクールだ。
入学式は高校の校舎に隣接するチャペルで行われるとのことだった。
高校の正門をくぐると正面に蔦の絡まる赤煉瓦のチャペルが出迎える。
入学式が始まるまではまだ時間があったが、気の早い新入生たちがチャペル前の広場に集まっている。
その中の1人、松の植木の前にいた少女に玲はたちまち目を奪われた。
茶色がかったセミロングの髪の毛はふわふわとウェーブしている。
モデルのように小さな顔にちょこんとかかった華奢なフレームの眼鏡もよく似合っていて愛らしい。
ほっそりとした手足は陶器のように滑らかで色白だった。
ダークグリーンのセーラーにアイボリーのオーバージャケットの制服は玲が着ているものと同じはずなのに、その子が着ているだけで華やかなドレスのようにさえ見えた。
玲の他にもその子をちらちらと見ている新入生が男女問わずたくさんいたけれど、当の本人は隣にいるロングヘアーの女性と話すのに夢中で周囲の視線には気が付いていないようだった。
おそらく母親だろう。顔立ちはどことなく似ているし、女の子と同じ茶色がかった髪はふわりとカールしており、これまたテレビでしか見たことがないような美人だった。
「あら、
玲がじっと見つめる先に気づいて、母が言った。
「知ってるの?」
その子から視線を外さないまま尋ねると、
「プロのギタリストよ。時々コンサートのポスターを見かけるし、テレビに出てるのもたまに見かけるわね。あの子は娘さんかしら。お母さんに似て綺麗な子ね」
母も感心したように呟いたが、玲がいつまでも彼女を見ているものだから、
「ほら、あんまりじろじろ見ないの。失礼でしょ」
そう言って玲を
入学式では新入生はチャペルの1階席、付き添いの保護者はバルコニー型の2階席に別れて座ることになっていた。
クラスはまだ発表されていなかったから入場した順に詰めて着席する。
なんとかあの子の近くに座れないものかと前に出ようと試みたが、入場整理をしている先生から制止を受けて近づくことができなかった。
着席した後もその子がどこにいるかきょろきょろと見回し、3列ほど前方の右手側に見つけた後は夢中になって見つめていたから式の内容はほとんど覚えていない。
式が終わると先生たちの案内でチャペルから教室へ移動する。
西州学院の中学校と高校は同じ敷地内にある。
中学校校舎の昇降口の傍らに掲示板が掲げられ、そこにクラスが貼り出されていた。
自分の名前をD組の欄に見つけた後も、五十音順に並んでいる名前を遡って「上村」という名字を探す。
しかしその名前は見当たらず、玲は落胆しながら2階にある教室に向かった。
ところが。
1年D組のプレートがついた教室に入ると、望んでいた茶色がかったウェーブの髪が視界に入り、玲は思わず立ち尽くした。
クラスの視線がちらちらと女の子に向かっていたけれど、入学初日のよそよそしい空気の中で彼女に話しかけようという生徒はいなかった。
玲にもそんな度胸はなく、浮かれて踊り出しそうな気持ちを抑えて廊下側窓際の自分の席に座る。
やがて担任の先生が入ってきてホームルームが始まり、おおよその例に漏れず生徒一人一人の自己紹介となった。
「桜賀玲です。小学校からサッカーをやってます。中学校でもサッカー部に入るつもりです。よろしくお願いします」
無難に自己紹介を済ませると拍手と同時に少しだけ教室がざわついた。
サッカーをやっている女子というのが珍しかったせいだろう。この学校に女子サッカー部があること自体、知らない新入生も多いに違いない。
だが、そんなクラスメイトからの好奇の視線も今の玲にはどうでもよかった。
彼女の名前を早く知りたい。玲はただそれだけしか考えていなかったから。
五十音順の出席番号で並んだ席に沿って進んでいった自己紹介はカ行、サ行と進んでようやく彼女の番になった。
すっと椅子を引いて立ち上がった彼女は軽く息を吸って言った。
「須藤羽卯です。えっと……特技はクラシックギターです」
他のクラスメイト同様に幼さの残る声ながら、
決して大きい声ではないが、清浄にさえ聞こえるその声に圧倒されたのは玲だけではなかったのだろう。クラスがしんと静まりかえった。
その反応に自分が何か失敗したと感じたのか、須藤羽卯と名乗った少女は色白な顔をほんのりと赤く染め、
「あの……よろしくお願いします」
そう言ってぺこりとお辞儀をし、そのまま着席した。
数秒の静寂の後に拍手が鳴り、さらに数秒おいて次の生徒が起立していた。
残りの生徒たちが順々に自己紹介を続ける間、須藤羽卯は恥ずかしそうに俯いたままだった。
新入生随一の美少女・須藤羽卯の噂は瞬く間に学校中に広まったようで、各部活からの勧誘がひっきりなしに舞い込んでいた。
同じクラスの玲も、女子サッカー部の先輩から誘ってみてくれと頼まれたけれど、彼女にそういうのは似つかわしくない気がして生返事で流していた。
彼女は運動部と文化部とを問わず次々と訪れる入部の勧誘をすべて断っていた。
「ギターの練習があるから」
それが理由だった。
ならばと合唱部や吹奏楽部といった音楽系の部活が誘ってみても色よい返事は得られない。
バンドをやっている先輩が誘ってみれば、
「エレキギターは触ったことがないんです。それに大きい音は苦手で。すみません」
との返事だった。
ギターの練習というのは方便ではないようで、実際、彼女は授業が終わるとたいていは早々に下校していた。
後で知ったことだが、彼女の母親がギタリストの上村知恵だというのは本当で、その母親からギターを教わっているとのことだった。
名字が違うのは特に複雑な家庭の事情があるわけでもなく、単に母親が音楽活動の際に旧姓を使っているだけの話だった。
様々な部活の先輩たちが次々と勧誘に訪れていた一方で、彼女はクラスメイトとはあまり打ち解けていないようだった。
周囲は気後れしていたのだと思う。玲自身もそうだった。
違う世界の存在のように見えて、どう接していいかわからなかったのだ。
彼女自身も積極的にクラスメイトに話しかけるほうではなかったから、お互いが歩み寄ることなく2週間ほどが過ぎた。
そんなある日、玲は社会科の授業で出た発表課題の下調べのために学校の図書室で資料を探していた。
しかし、根っからの体育会系で図書室という場所に馴染みがなかった玲は、どこを探していいのかもわからず右往左往するばかり。
「何かお探し物?」
不意に後ろから声をかけられた。
ガラス細工の鈴をそっと振るような涼しげで透明感のある声の持ち主が誰かなど、見なくてもわかる。
玲は動揺を悟られないようにこっそり深呼吸をして振り返った。
「ああ、社会の課題の資料を探してるのね」
こちらが答える前に玲の手にある教科書を見て合点がいったようだ。
「桜賀さんの班の課題は何だったかしら?」
続けて問いかけられても玲はきょとんと見つめるばかりで何も答えられなかった。
「桜賀さん?」
不審に思ったのか彼女が問いかけを重ねるが、深呼吸の甲斐もなく玲は慌てふためくばかりだった。
彼女の唇が私の名前を形作っている、彼女の声が私の名前を紡いでいる。
それが玲には得がたい奇跡のように思われて、答えるどころではなかったのだ。
「……あ、その、名前……」
それでも玲は何とかそう絞り出した。
「名前?」
「その……私の名前、覚えてくれてたんだなって」
玲がそう告げると、彼女ははにかむように笑った。
まるで可憐な花が開く様を早回しで見ているような、そんな笑顔だった。
「私だってクラスメイトの名前くらいはちゃんと覚えてるわ」
少し自慢げに微笑む彼女だが、クラスメイト全員の名前を覚えるために相当の努力をしていたのだと玲が知るのはしばらく後のことになる。
「そ、そうなんだ……。いや、私はまだ全員は覚えてないからさ」
玲の言葉に彼女は少し顔を曇らせる。
「そう。じゃあ私のことも覚えてないかな」
「う、ううん、わかる! 知ってる! 須藤さん、須藤羽卯さん!」
慌てて名前を呼ぶと、羽卯は嬉しそうに笑った。
見た目の華やかさと裏腹に普段の教室では大人しい羽卯が、こんなに表情豊かに笑うとは正直思っていなかった。
「それで、桜賀さんの班の課題は何?」
羽卯に見とれていたところにもう一度問いかけられて我に返ると、玲はようやく答えを返した。
「ああ、それならこっちね。ついてきて」
羽卯はそう言って先導するように歩き出した。
「えっと……いいの?」
「何が?」
玲が尋ねると質問の意味がわかりかねるといった様子で首を傾げる。
玲がやったらあまりの似合わなさに友達に笑われるようなあどけない仕草も、羽卯がやるとまるで違和感がなかった。
「その、須藤さんも図書室に用があったんじゃ……」
すると羽卯はくすりと微笑んで言った。
「だってこれが私の用だもの」
「え?」
一瞬、羽卯が玲に会うためにわざわざ来てくれたのかと思って頬が熱くなる。
しかし。
「図書委員が探し物のお手伝いをするのは当然でしょ」
「……あ、そうだったね」
迂闊にも羽卯が図書委員なのを失念していた。
そうなのだ。
週に2回ほど図書委員の当番があって放課後も学校に残っているのだった。
勝手な勘違いをして勝手に落胆している玲をよそに、羽卯は目的の書架に向かって歩いて行く。玲も気を取り直して遅れないように続いた。
「この辺りね」
羽卯は大きく手を広げて棚を指し示した。
「閉室までは時間があるからごゆっくりどうぞ」
「部活があるからゆっくりはできないかな」
本音を言えば羽卯がいる図書室に長居したいところだったが。
「そっか。サッカー上手だもんね」
玲は息を飲んだ。それは図書室に来て何度目の驚きだったろう。
「……ああ、図書室の窓から見えるから。当番も結構暇なのよ」
玲の驚きの理由を察したのか、羽卯はそう続ける。
「もしかしてサッカー、好きだったりする?」
祈るような心持ちで尋ねる。
グラウンドで練習している運動部はサッカー部だけじゃない。それでもサッカー部に目が行ったのなら、あるいは。
「自分でやるのは得意じゃないけど観るのは好き。お母さんが好きだからよく一緒に観てるの。でもあんまり詳しくはないかな」
そう返ってきた。
「じゃ、じゃあさ、今度練習試合があるらしいから観に来ない? その……私は入ったばかりだから出番ないかもしれないけど」
「面白そうね。ぜひ誘って」
ダメ元で言ってみると羽卯は眩しい笑顔を浮かべてそう答えた。
「わかった。日程が決まったら教える。その……教室で声かけてもいいかな?」
そう玲が尋ねると、羽卯はきょとんと首を傾げた。
「どうして? クラスメイトだもの、ダメな理由なんてないわ」
「いや……あんまり人と話さないみたいだから」
気にしていたらどうしようと思いつつそう返すと、羽卯は「ああ」と小さく手を合わせた。
「自分から話すのが苦手なだけよ。構わずに話しかけてくれると嬉しい」
「そっか。うん、わかった」
「ええ、よろしくね。桜賀さん」
「玲でいいよ」
「じゃあ私も羽卯でいいわ、玲ちゃん。サッカーのこといろいろ教えてね」
それが、桜賀玲と須藤羽卯の出会いだった。
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