第4話
学校から5分ほど歩くと
10階建てのマンションを見上げてレーナが感心したように呟いた。
「羽卯姉さまはお城にお住みなのですか?」
その反応がおかしくてつい笑ってしまう。しばらく地上に来ていないようなことを言っていたが、10年や20年ぶりという話ではないのかもしれない。
レーナは笑われたのが心外だと言わんばかりに頬を膨らませてみせるが、そんな表情すら可憐さが引き立つ一方だからずるい。
「100年やそこらご無沙汰してたってアパルトマンくらい知ってるんじゃない? 日本ではマンションって呼ぶのよ」
「ああ、そう言えばそんな住宅があったのです。思い出しました」
100年やそこら、だって。
羽卯は自分の荒唐無稽な発言に思わず吹き出しそうになったが、レーナは納得した様子だ。
オートロックの自動ドアを鍵で開けてエントランスホールに入る。一応、郵便受けを覗いてみるが、広告のチラシが数枚差し込まれているだけだった。
チラシを適当に丸めて備え付けのゴミ箱に放り込んだ後、廊下を中程まで進み、階段を上がる。エレベーターもあるのだが、あの狭い密閉空間が落ち着かないのであまり使用しない。
3階まで上がって突き当たりまで進めば羽卯の部屋だ。
エントランスで取り出したままの鍵をドアに差し込んで解錠する間、レーナは後ろで大人しく待っていた。
ドアを開けて中に入る際、羽卯は確認するようにレーナを振り返って言った。
「入って構わないけど、私の前でまた男なんかに化けたら叩き出すからね。それだけは覚えておきなさい」
「ええ、よく承知しているのです」
レーナは本気か演技か、やけに神妙な顔をして頷く。
「靴はそこに脱いで。日本じゃそういう決まりだから……って、どうしたの?」
いつまでもドアから中に入ってこようとしないレーナを訝しんで尋ねると、困ったような顔で靴箱の上に並んだ水晶細工を指差した。伯父の海外土産だ。
「申し訳ないのですが、どれでも構わないので少し位置をずらしていただけませんか?」
「……? 構わないわよ」
言われた通りに水晶細工の1つを1センチほど移動させる。
「ありがとうございます。これで入れるのです」
レーナは嬉しそうに言って玄関に入り、靴を脱いで上がり込んだ。
狭い廊下を通ってレーナをリビングに案内しながら羽卯が尋ねる。
「今の、いったい何だったの?」
レーナは後ろをついて来ながらなんでもないことのように答えた。
「水晶の並び方がペンタグラムになっていたのです。部屋の入り口に結界ができて入れなくなっていました」
それはもったいないことをしたと思わないでもない羽卯だったが、ここで入室を拒むくらいならそもそも連れて来ない。
だから、ただからかうように言うに留めた。
「ふうん。じゃ、元に戻しておけばレーナを閉め出すこともできるわけね」
「姉さまは意地悪です」
顔を見なくてもレーナが頬を膨らませて拗ねた表情をしているのがわかる。もっとも、それとて演技に過ぎないのかもしれないが。
「その『姉さま』はやめにしない? レーナのほうがずっと年上でしょう?」
すかさずレーナはこう切り返してきた。
「やはり『ご主人様』のほうがお好みですか?」
「……姉さまでいいわ」
一応、親戚って設定になってるわけだし。
羽卯は心の中で溜息をつきながらそう付け加え、リビングに入った。レーナも後に続く。
高校入学をきっかけに家を出ることに決めた羽卯のために母の実家が用意してくれた2LDKのマンションは、一人暮らしの女子高生には少し立派すぎるが、学校や駅にも近く、居心地もよくて気に入っていた。
リビングにレーナを残し、自室で手早く部屋着に着替えた羽卯が戻ってくると、レーナは所在なげに立ったままだ。
「私は夕食の準備をするから適当に座ってなさい。あ、天……悪魔ってご飯は食べるの?」
リビングと向かい合ったキッチンに入り、掛けておいたエプロンを着けながら尋ねる。
「天使は地上の物は口にしないのです。悪魔も元は天使ですから食事は必要ではないのですが、よろしければ頂きたいのです。これも堕天使としての一歩なのです」
ぺこんとソファに座ってキッチンを振り返った姿勢でレーナが答えた。
まるで不良気取りの子供が酒や煙草にでも手を出すかのような口ぶりだ。実際、人間の食べ物は天使にとってそういう存在なのかもしれない。
止めるべきかと一瞬だけ躊躇したが、自分には関係ないと思い直す。天使の堕落を止める義理などありはしない。
「じゃあ付き合いなさい。大した物は作れないけど」
「何かお手伝いしましょうか?」
レーナがソファから問いかける。
「別にいいわよ。というか、あなた調理器具使えるの?」
「人間の作った道具ならちょっと見れば使い方くらいはわかるのです」
誇らしげなドヤ顔だが、ここまで何かとドジなところを見ているだけにどこまで信用できるものか。
「手伝い不要ということでしたら、せめて水をワインに変えて差し上げましょうか?」
それはまた定番。実に悪魔っぽい申し出だ。
「あいにくだけど、今のこの国の法律では私はお酒を飲んではいけない歳なの」
「少し来ないうちに地上も世知辛くなっているのです」
不満げに口を尖らせているのがキッチン越しに見えた。
その様子では経験ありか?
ローティーンの少女にしか見えないその姿で酒を飲む様は想像するにも背徳的な絵面だが、飲酒に年齢制限がなかった時代・場所であれば普通だったのかもしれない。
だが。
「レーナもここにいる間はやめときなさいよ。実際がどうあれ、見た目は明らかにアウトなんだから」
自称悪魔に法令遵守を求めるのもおかしな話だが、誰かにでも見られれば面倒なことになるのは目に見えている。
いざとなれば、さっき服を一瞬で乾かしてみせたような不思議な力で誤魔化してしまえるのかもしれないが、あまり当てにしたくはない。
「承知なのです。私としても強いて飲みたいというものでもないのですよ」
それは結構。信じて迎え入れた悪魔がアル中という事態は御免被りたい。
……いや、決して信じたわけではないが。
在り合わせの野菜でサラダを作り、あとは適当にパスタでも茹でるかとソースに取りかかったところで来訪者を告げるチャイムが鳴った。
「こんな時間に誰かしら?」
いったん鍋の火を止め、リビング入り口脇の壁に備え付けられたインターフォンのモニターを覗くと、さっき学校前で別れた友人、
モニターで見る限り1人のようだ。
通話ボタンを押して話しかける。
「さっきの子たちとお茶に行ったんじゃなかったの?」
「うん、軽くね。
スピーカーから返ってきた声は玲にしてはどうも歯切れが悪い。
「ふうん。それで何かあったの? 学校帰りにうちに寄るなんて珍しいじゃない?」
玲がこの部屋を訪ねること自体に不思議はない。
春休みに実家から引っ越す際には手伝いに来てくれたし、その後も何度か遊びに来ていた。
だが、高校が始まってからは初めてのはずだ。
「いや、特に何がってわけじゃないんだけどさ、羽卯が1人でちゃんとやってるかなあって気になって」
言ってくれる。
正直、家事スキルに関してはサッカー馬鹿の玲よりは高い自信があるのだが。
おそらくそういうことを気にかけているわけではないのだろうけれど。
「……おかげさまで。家にいた時よりはずっとマシよ」
「そっか」
「せっかく来たんだし、上がれば」
そう言って解錠ボタンを押す。
「あ、レーナちゃん本当に羽卯のうちにいるんだ」
玲はリビングに入ってくるなり、ソファに座っているレーナを見て言った。
……セーフ。
これでレーナを部屋に入れていなかったら話がおかしくなるところだった。
「おや、先程のえっと、玲さん……でしたっけ?」
「そう言えば私だけ自己紹介してなかったね」
校門前で会った時、初対面だと羽卯が思っていた2人は自己紹介してくれたが、玲はレーナ相手にも名乗っていなかった気がする。
羽卯が呼びかけたのを聞いて名前だけは記憶していたのだろう。そういうところは抜け目がない。
「じゃあ改めて。私は桜賀玲、羽卯とは中学からの付き合いなんだ。よろしくね」
「はい、よろしくお願いするのです」
羽卯としてはあまりよろしくして欲しくないところだ。できればさっきのあれっきりにして欲しかった。
「ところで、羽卯とレーナちゃんって親戚、なんだよね?」
「はい、えっと……羽卯姉さまの……」
玲の問いに対し、レーナは答え方を求めるように羽卯を窺った。
「祖母の弟の孫よ。つまり
念のために考えておいたおかげでするりと嘘が口をついた。
「そう、正直あんまり似てないよね。羽卯もそうだけど、お
うぐっ。
「そこはほら、親戚と言っても少し遠いから。別の家系だって入ってるわけだし」
所詮アドリブには弱い羽卯だった。苦しい設定が積み重なっていく。
「ふうん、そういうものかなあ」
玲はどうも親戚という説明に納得していない様子だ。
羽卯がどこぞの家出少女を拾ってきたとでも疑っているのかもしれない。
とは言え、そんなマンガみたいなことがそうそうあるわけが……いや、現実はもっとマンガだったわ。空から天使が墜ちてくるほうがよっぽどフィクションだわ。
いっそ玲にだけは本当のことを言ってしまうか?
実は空から天使が墜ちてきて、どういうわけか懐かれちゃって。
うん、普通に考えれば変なクスリでもやってると疑われるだろう。羽卯だって他人からそんな話を聞けばそう思う。
しかし、玲は信じてくれるかもしれない。
母が亡くなったショックで
それで、その天使が悪魔になるとか言い出して、魂狙われてるのよね。
……いや、ないわ。玲に余計な心配をかけてしまう。
それに素性を知る人間が増えれば、レーナが好き放題に行動する余地が広がる。
生贄を気取るつもりはないが、親戚という設定で縛っておくほうが面倒がなくてよさそうだ。
「せっかく来たんだしご飯食べてく? サラダとパスタくらいしか用意してないけど」
少々強引ではあるが、話を切り替えていくことにした。
「ああ、お構いなく。ちょっと様子見に来ただけだし、そろそろ失礼するよ」
「何それ、そんなにちゃんと生活できてるか心配?」
「と言うよりは落ち込んでないかと思って。でも大丈夫そうだね。レーナちゃんがいるからかな」
まあ、鬱ぎ込んでいる場合ではなくなったという意味ならその通りかもしれない。
「玲さんは羽卯姉さまのことが大好きなのですね」
「え!? いや、まあ、その……そこそこ長い付き合いだし、羽卯ってば他にあんまり友達いないしね」
レーナが不意に放ったストレートな言葉に照れたのか、玲は少し赤くなっている。
「そうね。実際、『あんまり』どころか玲以外には友達いないし、心配してくれてありがと」
「……っ、急に何なの? それもレーナちゃん効果?」
おお、照れてる照れてる。
素直に感謝を伝えるのはこちらも照れくさいが、こういう玲はめったに見られるものではないからたまには悪くない。
「じゃ、じゃあ、帰るね。夕飯の準備中に邪魔してごめん。また明日」
玲は心なしか早口でそう言うとリビングを出て行く。
「あそこまで照れるなんて、玲も可愛いところあるわね」
玲を玄関まで見送った後、羽卯は思い出し笑いを堪えきれなかった。
「羽卯姉さまはもう少し人の心を理解するべきなのです」
……人ならざる存在に人の心を説かれてしまった。
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