第2話

 などと、本人が息巻いているところ申し訳ないのだが。


 少女の容貌は悪魔と聞いて連想する姿には程遠い。漆黒のドレスは悪魔らしいと言えなくもないが、それでも尚、少女の佇まいは悪魔よりは天使と言われたほうがしっくり来る。

 そもそも。

 堕天使は「堕ちた天使」と書くのだから、字面から言えば堕落した天使なのではないだろうか。目の前にいる少女の場合、話を聞く限りでは「堕落」ではなくて「墜落」のほうが正しい気がするのだ。

 そんなことを考える羽卯などお構いなしに少女は言葉を続けた。

「ですが、私のような新入りが魔界でうまくやっていくには相応の箔が必要です。そこで、しばらく地上で実績を作ってから魔界に行くのです」

「実績?」

 羽卯が聞き返すと、少女は薄い胸を更に張ってふふんと鼻を鳴らした。

「ご存じないですか? 悪魔の仕事は人間を誘惑して悪の道に引きずり込むことなのです。そうして死んだ後に魂を頂くのです」

 ああ、確かにそんなことを聞いたことがある。単なる伝説だと思っていたが、本当のことだったのか。

「都合よく目の前にはカモになりそうな人間がいるのです」

 少女が羽卯を値踏みするように上から下まで眺め回しつつ言った。


「……」


「ど、どうしてそんな呆れたような目で私を見るのです?」

 羽卯の憐れむような視線に晒され、自称悪魔の少女が途端に困った表情でおろおろし始めたものだから、たっぷり時間をかけて深い溜息をついた後、ゆっくりと諭すように言った。

「あのね、悪魔だとか魂を取るとか目の前で言われて、うかうかと引っかかる人間はそうそういないと思うわよ」

 少女は、ガーンという擬音語が文字になって見えそうなくらいはっきりとショックに打ちひしがれた表情を浮かべ、両手と両膝を砂浜について項垂れた。


「不覚です。私としたことが……」


 見た目だけは純真な少女だから羽卯が何か悪いことでもしたような気分になってしまう。

 が、相手は自称とは言え悪魔。それすらも計算のうちかもしれない。だとすれば、慰めるような言葉をかけるのも考えものだ。

 羽卯がどうしたものかと思案しているうちに、少女は突然起き上がり、ガッツポーズでも取るように握りしめた両の拳をぐっと構えた。

「こんなことで挫けていてはダメなのです。立派な悪魔になれないのです」

「……」

 あ、これは天然だ。

 自分にとって最善の対応は、少女が打ちひしがれているうちに黙って立ち去ることだったかもしれない。今にも海に向かって叫びだしそうな少女を眺めながら、羽卯はそう思った。

 だから、少女がエメラルドグリーンの瞳を怪しく光らせ、ニヤリと微笑みながらこちらを振り返った時、「ひっ」と小さく叫んで後ずさらずにはいられなかった。


「というわけで、そこの見るからに欲求不満なお姉さま」


 いきなり失礼な物言いだった。

「誰が欲求不満よ!?」

「どうです? お望みならあなたの肉欲を満たすことだっておやすいご用なのです」

 羽卯の抗議など聞いちゃいない上に何だか過激なことを言い始めた。

「に、肉欲って。可愛い顔してそんな言葉使わないの!」

 仮にも天使……元天使がなんたる物言いだ。

「何を照れているのです? あなたは見るからに欲求不満なのです。私でよければその欲望の捌け口になるのですよ」

 顔立ちはあどけない少女そのものなのに、妙に艶めかしいその表情は、ああ、確かに悪魔かもしれないと思わせるに十分だった。

「お、お断りよ。だいたいあなた女の子でしょ。私も女なの。そういう趣味はないの!」

「ふっふっふっ。悪魔を舐めてはいけないのです。堕ちても元は天使。そもそも天使には性別などないのです。お望みなら……」

 そこまで言って少女はポンッと音を立てて白い煙に包まれた。

 煙が収まると、輝くプラチナブロンドとエメラルドグリーンの瞳はそのまま、仕立てのいいダークスーツに身を包んだ長身の美青年が現れた。


「こんな姿にだってなれるのですよ」


 見た目の年齢は4、5歳ほども上がったというのに口調は変わっていない。

 青年の姿に化けた自称悪魔は、瞳に蠱惑的な光を湛えながら羽卯のほうににじり寄ってくる。

「どうです? これならあなたも満足なのです。どんなことでも望みのまま叶えて差し上げるのですよ」

 すっと伸びてきた腕に手首を掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。

 現実離れして整った顔が唇の触れそうな距離まで近づく。これと比べてしまったらどんな映画スターもジャガイモにしか見えなくなりそうだ。

 こんなふうに肩を抱き寄せられれば、平凡な女子高生の理性など嵐の中の蝋燭みたいなものだろう。


 けれど。


「やっ、離して!」

 羽卯はおぞましげに肩を震わせながら青年を突き飛ばした。

 青年はよろめいて数歩後ずさって体勢を立て直したが、羽卯自身は反動で砂浜に倒れ込んでしまう。海水に濡れた服に砂がまとわりついたが、怯えさえ混じった表情で震える羽卯にはそれを払う余裕などなかった。

 自称悪魔は訝しげな目つきで羽卯の様子を窺っていたが、すぐにさっきと同じようにポンッと煙を立てて元の少女の姿に戻った。

「ふむ、やはりこちらのほうがお好みなのではないですか」

 それから砂浜に座り込んだままの羽卯の傍らまでやって来て、顔をまじまじと覗き込んでくる。

 さっきと変わらないほどの至近距離まで詰め寄られてもさっきのような怖気おぞけは起きない。ただ、人形のような整った顔に見つめられて、少し照れてしまう。


「あなたの目はとてもきれいなのです」


 ぽつり、感嘆が口から零れ落ちたかのように少女が呟く。

「な、何を言ってるの。あなたのほうがずっときれいじゃない」

 羽卯自身、母と同じヘーゼルの瞳を誇らしく思ってはいたが、目の前に迫っている宝石のような瞳に比べれば人よりちょっと色素が薄いだけのありふれたものでしかない。

「そういうことを言っているのではないのですよ」

 自称堕天使は羽卯の目を飽きる様子もなく見つめていたが、やがてすっと立ち上がると、決意に満ちた目で羽卯を見下ろした。

「決めたのです!」

 少女はびしっと羽卯を指差して声高に宣言した。


「必ずあなたの魂を頂くのです!」


 こんな目がそれほどまでに彼女の気に入ったのか、それとも他に何か琴線に触れる要素があったのか。

 いずれにしても、自分がとてつもなく厄介なことに巻き込まれた気がして仕方がなかった。

 脱力感を堪えながら何とか立ち上がった羽卯に、少女は目を輝かせて尋ねた。

「まずはお名前から聞かせていただくのです」

「はあ……。盛り上がっているところ申し訳ないけれど、あなたとはこれ以上関わり合いになるつもりはないの。だから名前なんて教えても無駄」

 羽卯が溜息混じりに突っぱねると、少女は頬をぷいっと膨らませた。拗ねた表情さえもこの世のものとは思えないほど可愛いのが小憎らしい。実際、この世のものではないのだけれど。

「……む、ではこっちで勝手に調べるのです。天界のデータベースを舐めてはいけないのですよ」

 そう言うなり少女は両の掌を合わせて空を見上げ、なにやらぶつぶつ呟いている。

 祈りを捧げる天使と見れば絵になる姿と言えなくもないけれど、正直、その姿はちょっとばかし痛々しかった。


「……アクセスできなかったのです」

 またも砂浜にがっくりと両手両膝をついて項垂うなだれる少女。パソコンじゃあるまいし。

 気の毒に思わないでもないが、先ほどの教訓を生かして今のうちに退散しよう。そう考えて羽卯が浜辺に背を向けた時だった。

「待つのです!」

 少女に勢いよく呼び止められた。立ち直りが早くて結構なことだ。

「……まだ何か用?」

 めんどくさそうに、それでも無視することなく律儀に振り返って尋ねる羽卯。

「これはサービスなのです」

 少女はそう言って芝居がかった仕草で両腕を軽やかに振る。途端に、濡れていた羽卯の服がさっぱり乾き、こびりついていた砂もきれいになくなっていた。

「お代は要らないのですよ」

 にっこりと微笑む少女は、たとえ本人が否定したとしても天使そのものだった。

 そんな笑顔を向けられて気恥ずかしくなった羽卯は慌てて顔を背けた。

 空から落ちてきて無事な時点で普通の人間じゃないことはわかりきっていたが、改めてその証拠をまざまざと見せつけられて驚いたのもある。

「と、当然でしょ。だいたいあなたが落ちてきたせいで海に放り込まれてずぶ濡れになったんだから。こんなことで魂取られちゃたまんないわ」

「ああ、やっぱりそうでしたか。最初にお見かけした時から気にはなっていたのですよ。私の記憶が確かなら今は海で泳ぐ季節ではないのです」

 海で泳ぐ季節だったとしても服を着たままは泳がない。

 そんなツッコミを入れたくなったが、それでは相手のペースに引きずり込まれるだけだと感じた羽卯は、

「でも一応言っとくわ。ありがとう」

 そう呟いて再び少女に背を向けた。そのまま砂浜を後にする。

 おかしな自称悪魔だったが、もう会うこともないだろう。そんなことを考えながら舗装された道に出る。


 ココツ、ココツ。……足音が一つ多い。


「何でついて来るのよ!?」

 振り返って声を上げる。金髪の小悪魔がきょとんとした顔で羽卯を見上げていた。

「聞いてなかったのですか? 私はあなたの魂を頂くと言ったのです」

 何故理解できていないのか理解できないといった表情が若干しゃくに障る。

「だから、私はあなたとこれ以上関わり合いになるつもりはないって言ったでしょう!」

「ええ、確かにそのように聞いたのです。ですが、それはそれ。悪魔の仕事は断られてからが始まりなのですよ」

「どこのセールスマンよ!」

 苛立たしげな羽卯の言葉にも動じる様子なく、少女はニコニコと微笑んでいる。

 のれんに腕押し、ぬかに釘、豆腐にかすがい、馬耳東風……。そんな言葉が次から次へと頭の中に浮かんでは消える。

 落ち着け、須藤羽卯。バカ正直に相手をしていると向こうの思う壺だ。

 羽卯は額に手を当てて頭痛を堪え、これ以上は何も言うまいと決意を込めて歩き出した。

 相変わらず少女がぴったりと後ろを歩いてくるが、気にしない。ただ歩く方向が同じなだけだ。


 海岸から市街地の間に広がっているのは、数十年前に整備された埋め立て地区で、ガラス張りのランドマークタワーや、市立図書館、市立博物館といった施設や高層マンションなどが建ち並んでいる。

 ここを抜け、かつて海岸線だった幹線道路を横切ってバス通りを少し歩くと羽卯の通う高校が見えてきた。

 金髪悪魔は変わらず後ろをピタリと付いてくる。


 どうしたものか。


 羽卯が住んでいるマンションは学校の近くにある。まさかマンションの中まではついて来ないだろうが、住んでいる場所を知られるのはあまり好ましくない。

 取りあえず、しばらく時間を潰しつつ隙を見て少女を巻いて逃げ出すことしよう。そう決意した羽卯が校門前を通りがかった時だった。

「あれ、羽卯?」

 聞き慣れた声に思わず立ち止まる。

 振り向くと羽卯と同じ制服を着た3人の女生徒が出てくるところだった。

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