夜明けの星が輝く空に
雲母橋 悠
第1章 空から墜ちてきた天使
第1話
まだ少し肌寒さが残る春先の海辺には人の気配がなかった。
ふと、母が歌っていた古い歌を思い出す。あれは春ではなくて秋の海を歌ったものだったか。
「つらくても死にはしない」、そう口ずさんでいた母が亡くなったのが一昨年のこの季節だった。あれから三度目の春が来て、
夏にもなれば海水浴客でそれなりに賑わうこの海岸も、今の時期には実際の気温以上に寒々とした光景が広がっている。
それでも羽卯はそんな誰もいない季節の海が好きだった。
夏の海岸に足を運ぶことはほとんどない。
母方の遺伝か日差しに弱い肌はすぐに焼けて赤くなってしまうし、人混みも嫌いだ。男たちの好奇の視線に晒されるなど真っ平ごめんだった。
自分の外見が多少人目を引くものだという自覚はある。しかし、注目されるのは苦手だし、いつまで経っても慣れなかった。
人気のない海まで足を運んだのには、新年度を迎えて浮き足立っている学校の空気から逃げ出したかったというのもあったのだ。
「はあ……」
風に吹かれて波打ち際を歩きながら、無意識にこぼれる溜息の後で空を仰ぎ見る。
鬱ぎ込む羽卯を嘲笑うかのように雲一つない青空が広がっていた。
海風が、羽卯の光沢のある栗色髪を柔らかく撫でた。母と同じ色と癖を持った髪は、同じく母譲りのヘーゼルの瞳と共に大切な形見だった。
ふと、澄み渡る空の一点で光が瞬くのが見えた。
人工衛星が太陽の光を反射しているのだろうか。地上から肉眼で見えるものなのかはわからないが。
そうでなければ飛行機あたりか。
間違っても宇宙怪獣だとか、地球侵略を企む宇宙人を乗せた飛行物体などが漂っているわけではあるまい。
自らの空想を馬鹿馬鹿しく感じた羽卯が気怠げな欠伸を一つしていると、つい今しがた光が見えた方角から何かが猛スピードで飛んでくるのがわかった。
「何かしら?」
羽卯が右手で眼鏡のずれを直しつつ首を傾げているうちに少しずつはっきりしてきたその物体は、真っ赤に燃える火の玉だった。
「ええっ、何!? 隕石? もしかしてこっちに落ちてくるの?」
突然のことにパニック状態に陥った羽卯は慌てて身を翻して逃げようとした。
後から考えるとこれがまずかった。そもそも、はるか上空から飛んでくる物体が、正確にどこに落ちるかなどわかりはしないのだ。逃げた先に直撃する可能性も否定できない。
もちろん、動かずにじっとしていればそこに落ちてくるかもしれないから結果論でしかないが。
羽卯が10メートルも走らないうちに、落ちてきた物体は前方の砂浜に派手な轟音と共に着弾した。爆風が浜辺の砂を巻き上げ、嵐となって襲いかかる。
運悪く、落下地点に向かって走る形になっていた羽卯は、いとも簡単に煽られて吹き飛ばされた。
こんなことならじっとして地面に伏せていればよかった、そんな後悔をする暇もなく宙を舞った先に海があったのは、幸か不幸か。
海中に叩き込まれた勢いで体がぐるりと回転し、塩分を含んだ水が鼻や口から体内に流れ込んでくる。春先の海水の冷たさが肌を刺す。
「ぷはあっ! ごほっ、ごほっ!」
全身濡れ鼠になり、口いっぱいに広がる塩の味に咽せながらも何とか海面から顔を出すと、砂浜でもうもうと煙が上がっているのが、靄のかかった視界に映った。
「……って、あれ、眼鏡は?」
今の衝撃で眼鏡がどこかへ行ってしまったことに気づき、水の中を両手で探る。幸いなことに落とし物は近くを漂っていたらしく、すぐに手応えがあった。拾い上げてかけ直すと、活火山のような煙が鮮明になった。
今が春でよかったとつくづく思える光景だった。
羽卯にとっては十分災難だったけれど、これが海水浴シーズンだったら大惨事になっていたはずだ。あるいは、落下先が市街地だったらと思うとぞっとする。
水を吸ったブレザーの重みとブラウスが貼り付く不快感を振り切るようにざばざばと音を立てて砂浜まで戻ってくるが、空から落ちてきた物体はまだ煙に覆われていてその正体を識別することもできない。
まさか煙の中から宇宙人が現れることもあるまいが、このまま見なかったことにして立ち去るのが賢明だろう。警察や消防車が駆けつけて事情聴取を受けることになっても面倒だ。
君子危うきに近寄らず。
何を警戒しているか自分でもわからないが、もうもうと上がる煙から距離を置き、音を立てないよう静かに脇を通り抜けようとする。それでも、視線はついついそちらに吸い寄せられた。
煙を中心に砂が掘り下げられて、小さなクレーターを形成している。
やはり隕石だろうか。だとすれば羽卯は運がよかったと言える。おそらくかなり小さな隕石だったに違いない。もっと大きなクレーターができるような隕石だったら、羽卯は落下の衝撃に巻き込まれて死んでいたかもしれない。
その時、煙の向こうで何かがゆらりと動くのが見えた気がした。
「ひっ!」
思わず声を上げてしまった。
そんな、まさか。本当に宇宙人? それとも怪獣?
羽卯は引きつった表情で後ずさる。
「けほっ、けほっ」
「……え?」
煙の中から咳き込む声が聞こえ、羽卯は凍り付くように動きを止めた。
ずいぶんと可愛らしい、人間であれば間違いなく女の子と判断できる高い声。
しかし、パラシュート付きのスカイダイビングならともかく、あの速度で空から落ちてきて砂浜とは言え地上に激突し、それでいて煙に咽せる余裕のある女の子なんて聞いたことがない。
それでも、壊れたラジオのような理解不能の言語だとか凶暴な咆哮だとかが聞こえてくるのではと危惧していた羽卯は拍子抜けしてしまった。
その間にも煙の中の影はこちらに近づいてきて、やがてその全貌を明らかにする。
現れたのは、フリルがたくさんついた真っ黒なドレスを身につけた女の子だった。こういう服を何というのだったか、ファッションに疎い羽卯は詳しくなかったが、数少ない友人から借りた漫画で何かしらの名称を見た気がする。
それはさておき。
少女(仮)は、常識的に考えれば普通の地球人のはずがないのだけれど、敢えて言い表すなら
艶のあるプラチナブロンドの髪は多少煤けていることなどお構いなしに美しく輝いている。
同じく煤まみれになっている肌は透き通るように白く、黒いドレスと好対照を成していた。
整った輪郭は大理石のビーナスをやや幼くしたような印象だ。
そしてトドメとばかりに鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が、こぼれそうなくらいにぱっちりと開かれている。
つまるところ、テレビや雑誌でさえ見たことがないようなとんでもない美少女だった。
落ちてくる時にあれだけ真っ赤に燃えていたにもかかわらず、着ているドレスには傷んだ様子がまったくない。焼けこげて黒くなったというわけでもなさそうだ。
もしかしたら特殊な宇宙服なのだろうか。そんな、宇宙のどこかに常識を置き去りにしたようなことを考えてしまうのは既に現実逃避が始まっている証拠か。
「いたたた、着地に失敗してしまったのです」
けほけほと更に咳き込みながら少女が言った。
「日本語?」
謎は深まる一方だった。白人顔の宇宙人(?)なのに日本語を話すとはどういうことだろう。
少女は辺りをきょろきょろ見回したり天を仰いだりした後、呆然と見つめる羽卯に目を向けた。
「おや、そこのあなた。ここはニホンという国で間違いないのでしょうか?」
にこやかな微笑みを浮かべてそう尋ねてくる。
「そ、そうだけど、あなたはいったい何者なの? 宇宙人?」
やや怯えた表情で尋ね返す羽卯の言葉に、ブロンド少女は首を傾げた。
「ウチュージン? 何ですか、それは? 今のニホンでは天使のことをそう呼ぶのですか? ふむ、やはりしばらく地上に来ないと知らない言葉が増えていますね」
頷きながら一人で何かを納得している様子の少女だが、羽卯には彼女が何を言っているのかまったく理解できない。
今、テンシと言ったか? テンシとはあの天使のことか?
やがて少女は顔を上げると、外見の年齢を考慮してもやや薄めの胸を張って晴れやかに言い放った。
「でも残念ながら違うのですよ。私は堕ちたてほやほやの堕天使なのです」
「ダテンシ?」
少女が口にした単語を、羽卯は咄嗟に漢字変換することができなかった。しかし、少女はそんな羽卯の都合などお構いなしに話を続けていく。
「そうです。ちょっとばかし主に逆らって天界を飛び出したまではよかったのですが、ドジってしまって地上に真っ逆さまなのです。しかし、このままおめおめと天界に戻るわけにもいきません。魔界にでも行って成り上がってやるのです」
家出少女がグレてやると宣言するような口調で突拍子もない話が飛び出したが、それを聞いてようやく少女の正体(ただし自称)に思い当たった。堕天使、つまり……。
羽卯の反応を見て少女は目を細め、ふわりと口角を上げた。
「あなたはなかなか察しがいいのです。こうして堕天した以上、私は一人前の悪魔になってみせるのです」
プラチナブロンドの美少女はそう声高らかに宣言した。
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